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生野銀山3

生野銀山は開坑が大同2年(807年)と伝えられるが定かでない。室町時代にいたって山名祐豊が進出(天文11年1542年)その後銀山経営は信長秀吉最後に徳川の手に落ちるのである。江戸時代元和8年には1ヶ月に5〜6千荷も出したと言う。1荷は鉱石1斗2升で含銀量が20〜30匁であった。しかし慶安頃には一時衰退する。加えて吹屋(精錬業者)の一軒から出火し、坑内配水に従事する樋引き(坑夫2〜3千人)の住居が失われるという災難があった。
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右のあかりは菜種油 ろうそくはすすが出るので用いられなかった
DSCN7357明治時代の坑夫
DSCN7354坑道の柱は水に強い材が使われた。松や檜
DSCN7355立っているのは明治以降
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明治時代 削岩機や電動の掘り機が使われた。

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