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壱岐対馬へ(壱岐対馬を巡る万葉の旅)6

ビューホテル壱岐に着くまでの間、バスガイドさんからホテルの裏側にある春一番の塔がある事を教えられた。朝散歩がてらに登ってみる。安政6年(1859)本居浦の漁民たちが五島沖で南風(春一番)に遭い、多くの人命が失われた。春一番と言う言葉はこの遭難事件に由来すると言われている。2日目もバスで観光 最初は月讀(つきよみ)神社である。日本書紀によれば、顕崇天皇3年(487)阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が命により任那に遣いにでた時、我が祖高皇産霊(
たかみむすび)は天地を創られた功がある。民地をもって奉れ、我は月神なり。そのようにすれば、慶福が得られるだろう」との月神の宣託があり、その内容を天皇に上奏、朝廷は山城国葛野郡の歌荒す田(うたあらすだ)を奉り、壱岐の県主の祖・押見宿禰(おしみのすくね)が、壱岐より月神の分霊をおこなう。これが京都松尾大社の摂社月讀神社で壱岐の月讀神社が元宮です。
次に曽良の墓に参る。曽良は芭蕉の奥の細道に随行したことで知られているが、それが分かったのは昭和18年であった。62歳で巡検使に任命され、壱岐に行く。壱岐の勝本で病に倒れ客死。春にわれ 乞食やめても 筑紫かな
曽良に関しては司馬遼太郎の「街道を行く13」に詳しく出ている。
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春一番の塔
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ビューホテル壱岐
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月讀神社
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曽良の墓

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name.. :記憶

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