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モンテゴベイで

2012年10月26日
皆様へ

クスコで飛行機は1時間近く遅れて出発した。リマでは次の便に乗り損ねた。当日の便に乗れるかどうかはコントロールセンターで聞いてくれという。電話番号をもらい電話した。日本でも同じだが1番はスペイン語2番は英語その他はなかった。英語でしゃべるが、何か番号を言えと言っている。何の番号かわからない。パスポートの番号や航空会社の確認番号など言ってみたが、アイドントノウやアイキャンツアンダースタンドと言われ、大いに困った。旅程番号を言っているのだとやっと気付いた。今日の夕方の便は満席だ。明日ならOKという。わたしは今日でなければだめだというと他社の航空券を買えという。仕方なく他社の搭乗券売り場で買い求めた。トラベルはトラブルだ。またまたトラブルが発生した。モンテゴベイ空港でバックを引き取るとキャスター部分がこわれているのだ。20センチも横に亀裂が入っている。さっそく航空会社に修理するように言ったが埒が明かない。そちらの保険で直せという。それでこれは明らかにおたくのミスだと言ってもノッツレスポンシブルという。今何ていったか紙に書けというとノッツレスポンシブルと書き、直してほしかったら荷物をからにしてまた持ってきなさいという。文化の違いか  米道綱夫

クスコで

2012年10月26日
皆様へ

15日クスコからリマに飛行機で飛ぶつもりだ空港に来たが、荷物を預けた後、飛行機が大雨で飛ばないことになった。案内はスペイン語でされるので全く分からない。乗客の移動で荷物を戻すから受け取れと言っているのがやっとわかった。荷物を受け取った後どうするのかこれが全く分からない。荷物を持ってうろうろすると係官が61番窓口に行けという。困り果ててアントニオ氏の仲間のガルブレイス氏に連絡を取る。とにかくノウ・フライト アイキャンツゴウツウリマ。アイウエイトユウ コパ61カウンターと2回繰り返した。するとなんと30分でアントニオ氏が来たではないか、そしてもう大丈夫です。今日はクスコのホテルに泊りなさい。詳しいことはガルブレイスがやるからという。明日の早い飛行機を手配してくれてなんとか切りぬけそうだった。そして宿も空港へ歩いて5分のところにとってくれた。次の早朝扉をノックされた。なんとガルブレイスが迎えに来たではないか。そして早朝の便に乗ることができた。彼らのサービス精神には感心した。

クスコで

2012年10月26日
皆様へ

私は当初クスコでペンションを経営する花田氏にクスコ・マチュピチュ観光の依頼をするつもりでした。クスコの空港でタクシーに乗るとタクシーの運転手アントニオ氏が自分も小さな旅行会社をやっている。花田氏には私から言っとくから貴方の計画を私に立てさせてくれませんかと日本語で言う。私はそれでは花田氏に悪いし、それはできないと答えると大丈夫です。私は正真正銘の旅行業者です。と旅行業の免許を見せて言う。そしていくらぐらいの予算ですかと言うので私は一日1万円ぐらいを予定しているというとそれで予算を組みましょう。花田氏のところだったら3割増しでしょうともいう。騙されているのかも知れないと思って断るとしつこく大丈夫です。マチュピチュ観光のベテランです。間違いありませんとタクシーを自分のサービスが効くホステルに連れて行き、大丈夫です。と盛んんに繰り返す。わたしもその根気に負けて任すことにした。これは結果的に良かった。次の日にきっちり出迎え、ポロイ駅への送り、列車の手配など見事だった。                米道綱夫

マチュピチュ

2012年10月26日
 皆様へ

マチュピチュは以前から行きたい場所でした。アメリカの地理学者・民俗研究者のハイラムビンラム氏が発見して今年で100年になります。仙台市博物館でこの100年を記念して7月にインカ帝国の展示会をしました。私も見に行きました。特にこのような高地に300人から1000人が住んでいたというのが驚きです。この高地農業にはインカ独特の知恵があります。ただしこのことはマチュピチュのガイドの話を聞いて初めてわかりました。インカは石の文化です。石を巧みに使っているのです。石に農地を温めてもらうのです。ですから太陽が沈んで空気は冷えても土の中は温度が保て、豊富な農産物が作られたのです。インカの暦は太陰暦でもありません。1か月が20日程度の独特のものです。またインカ暦によれば今年で地球は終わるそうです。終わらないと思いますが、このままだといつか終わってしまいます。
                       米道綱夫

皆様へ

この収容所の設立命令は1940年日下され、ルドルフ・ヘスが任命された。当初20棟の建物が建築されたがのちに8棟が追加された。1942年には最大28000人の囚人が収容された。しかし平均収容者数は13000人から16000人程度である。収容された人々は写真に残されているものもあればのこされていないものもあり、殺された人数の正確な数は分からない。ユダヤ人のほとんどはここに到着してすぐにガス室に」送られ、ファイルに保管されることなく、殺されていったためである。虐殺は飢え、重労働、医学実験、死刑執行の手段でなされた。
 歴史学者の調べによると不完全な資料の研究からではあるがここで殺された人数は150万人と発表している。
 アウシュビッツの収容所内は展示品と其の当時の写真そして囚人が描いた絵によって当時の状況を再現している。説明は約1時間30分あった。(各棟の移動時間を含め)表に出ると寒い。曇っていて太陽が出ない。その中で旗を持って、ときに大声で何か言っているグループがある。どこの国旗か聞くとイズラエルと答えた。私は聞きなおした。イズラエル・・・イスラエルのことか、日本では濁らないがこちらではそう呼ばれているのだろう。

皆様へ

クラクウからアウシュビッツまで車で約一時間である。私はポーランド滞在に2日間しか取っていないので本日ぜひアウシュビッツ収容所を見たいとインフォーメーションが開店すると同時にスタッフに申し込んだ。最初は明日にしてくれないかと言われたがどうしてもというと色々電話をかけてくださり今日のツアーにはめ込んでくれた。通訳は英語・スペイン語・イタリア語があり、私は英語を選んだが五分の一程度しか理解できなかった。ガイドはきれいな英語を話すのでまだ分かったほうだと思っている。
アウシュビッツは初めポーランドの政治犯を収容するため、ナチドイツが作った収容所である。またアウシュビッツはナチがつけた名前で本来はポーランドの地名だ。読み方が良くわからないが多分オシフィエンチムという名前だ。オリンパスのヴォイストレックを持参していたので役に立った。1940年から1945年までの5年間に全ヨーロッパの人間、おもにユダヤ人、ジプシーとソ連軍の捕虜、囚人にはチェコ人・ユーゴスラビア人・フランス人・オーストリア人・ドイツ人が送り込まれている。

皆様へ

昨日ポーランドのクラクウに着いた。ここは17世紀初頭に首都がワルシャワに遷都するまでポーランド王国の首都だった。ポーランド文化の中心地でもあります。歴史的な建造物が立ち並ぶだけでなく、芸術の都でもあります。町を歩いているとどこからとなく、古典音楽が聞こえてきます。また中央広場には大道芸人やダンスを披露する若者のグループ、そして弦楽と手風琴の組み合わせによる楽団が広場のコーヒーショップでくつろぐ人たちの前で音楽を奏でます。私も今日は中央広場に面したレストランでちょっと優雅な気分を味わおうとサラダとビールを注文し、くつろぎました。サラダと言っても大きなお皿いっぱいにチキンの焼いたのとキュウリトマト、レタスなど混ぜてあるものです。そしてこのサラダにパンがつきます。パンは3切れ、バター2個、これでもうお腹いっぱいです。私は少し早く食事をしていました。外に出て気付いたのですが、隣のレストランはピアノ弾きが演奏していました。最初から隣のレストランに入ればよかったのにと思いました。クラクウはきれいで荘厳で活気にあふれた街です。