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シーボルトは49歳で長男アレクサンダーをもうけたが、以後2男2女でとイネを含め子供は6人になる。アレクサンダーは英国公使館の通訳として生麦事件や下関戦争の交渉に立ち会った他、欧米との不平等条約を改めさせた。また佐野常民(適塾・象先堂塾出身)を助けて博愛社(後の日本赤十字社)の設立に深く関わり、日本がアジアで初めてのジュネーブ条約加盟国となった。明治43年には日本政府に奉職40年になり勲一等瑞宝章を送られている。弟のハインリッヒは父の日本研究を引き継ぎ遺跡発掘等(大森貝塚)考古学の分野で多くの功績を残した。イネは明治3年2月東京京橋築地にて産科医開業、明治6年宮内省御用掛りを拝命、若宮様誕生の功労で宮内省から功労金として100円下賜された。
画像左アレクサンダー右ハインリッヒ
画像左西南戦争で放置された負傷者を救うため博愛社が設立された。当時社員数38名 右日露戦争で負傷した兵士(ロシア含む)の救助活動をした
画像イネの乳母と言われる「とみ」
画像イネが産科医時代の時の写真 私のオランダ人の友人フロライム・レムコー氏から送られたもの

シーボルトは日本追放を受けた後でも再び日本へ行こうといろいろと画策していた。オランダの国王使節ドンケル・クルチウスは長崎奉行に対し、シーボルトの追放解除を申請し、1857年に追放解除が解かれた。彼は2年の契約で1859年に長男アレクサンダー(シーボルトが50歳の時に生まれた)を連れて8月長崎に到着している。この時は文物の収集も多いが、1861年からは幕府の外交顧問のような役割をしていた。イギリス公使館襲撃事件で其の解決に奔走したが、認められなかった。江戸においては幕府役人や医師や技術者たちへの講義等している。シーボルトは1862年に日本を離れたが。アレクサンダーはイギリス公使館の通訳として日本に残る事になった。
画像シーボルトとアレクサンダー
画像アイヌの猟師の絵 木に登って獲物を捕らえる図と右は上方にシカが2頭描かれている。シーボルトはアイヌや北方領土にも興味を持っていた
画像シーボルトが写した樺太の地図
画像花魁(おいらん)川原慶賀に描かせた
画像舎密(せいみ)Chemie化学 大阪にあった舎密局は第3高等学
校の源流 右は当時の医療用具

本日標記の大会が堺市の庭代台小学校講堂で行われた。本大会は正心館の門真・尼崎・福島・泉北の各道場で稽古をしている幼児から一般社会人までが参加して日頃から練習している形や組み手を競い合ったものである。それぞれの道場の特色があり、組み手では福島・尼崎道場が強く、形は泉北道場が強かった。団体戦の形の部は3人ずつ演舞し、一人一人の演技の正確さと揃っているか、力強さがあるかがポイントになり、泉北道場がまとまリを見せていた。組み手は相手の動きを良く見て正確に突きや蹴りを出している選手がポイントを着実にしていた。天気もよくけが人も出ずに無事終了しました。
画像 大会の役員をしてました
画像競技前の全員体操
画像泉北道場の選手と指導員
画像組み手競技
画像糸東流拳法空手道4段になりました

 シーボルトより133年前に来たケンペルは日本へ向けて1683年に出発し1690年に着いている。最初から日本という訳でない。医師であり博物学者である所はシーボルトと同じで彼は「日本誌」を著している。その当時の日本は鎖国していたが此の鎖国という言葉はケンペルの論文のなかの言葉でそれを通訳の志筑忠雄が鎖国と訳した事に始まる。私は此の志筑忠雄の訳はすばらしいと思う。ピースボートの船がカンヌかイタリアのチッタヴェキアに入った時波止場の入り口に鎖があり、それを下ろしているときは船が自由に出入り出来るが、鎖をあげると船の航行は出来なくなる。戦争が起こった時に外国から攻められないようにしたという。水先案内人から聞いた話だ。しかし志筑忠雄は海外に出て鎖も見ていないにも関わらず、鎖国としている点ですごい。
画像 シーボルト20歳の頃
画像川原慶賀に欠かせた江戸品川宿の光景 遊女が3人いる
画像鳴滝塾 シーボルトが此処で蘭語や医学を教えた。 色々な資料を集める資金は此処から得た
画像アムステルダムの日本博物館の展示 「日本の宗教」と言う題が付けられている。阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩・僧の座像があり、シーボルトの理解が感じられる。

9月26日(火)大阪吹田の国立民族学博物館で開かれている標記の展覧会に行った。日本が鎖国している時に自由に日本と交易出来たのは中国とオランダだけだ。何故オランダかは江戸幕府が極度にキリスト教を嫌ったからだろう。それまで宣教師はキリスト教の布教と同時に裏では火縄銃や鉄砲や大砲までも日本に持ち込み、幕府の存在を脅かす物であった。オランダはそのころやっと国として安定し、スペインやポルトガルやイギリスのように交易による利益と植民地を求める活動に入るのである。日本とオランダの交わりの始まりはリーフデ号が難破して豊後国臼杵に漂着した時に始まる。それから辛抱強く日本と交易を続け、日本が西洋の情勢を見る窓のような存在であった。シーボルトは1823年8月に初来日している。そして11月頃にはシーボルトの身の周りを世話する其扇(そのき)オタキと夫婦生活をはじめている。そして1827年に日本で初めての女医となる楠本イネをもうけている。
画像シーボルト展パンフレット10月10日までだ。
画像系図
画像其扇(おたき)当時16歳
画像イネ 日本で初めての女医 産科

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