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和多都美神社は豊玉姫と山幸彦(ヒコホホデミノミコト)を祀る海宮で古くから竜宮伝説が残されています。兄の釣り針を探す旅に出た山幸彦はここ二位で豊玉姫と出会いました。そして二人は結婚し、幸せにくらすのであるが、この話は古事記・日本書紀にも載っている通りである。神社の拝殿では韓国の旅行者が40名ほどいた。バスに書かれたハングル文字を見ると一泊2日のツアーである。拝殿の前で韓国女性ガイドが色々説明している。私は所々分かったが、スルモグルケヨまたはムルモグルケヨと言ったのに少し引っ掛かった。酒を飲む?日本ではお酒等をお供えと言うが韓国は神様が飲むと理解しているのだろうか?私はガイドにムオモグルカヨと質問すると、「中を見なさい」と日本語でぴしゃりと言われてしまった。神社の後にある鬱蒼とした原生林を見た後、烏帽子岳展望台に向った。天気がよければ韓国釜山が見えるはずだったが舫っていたいた。夏より秋から冬にかけて良く見えると言う。
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和多都美神社の説明板
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豊玉姫のいたところ
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展望台から朝芽湾を望む
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展望台から韓国方面を望む
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私とM教授 展望台にて

対馬厳原港に着くとすぐに国分寺に向かった。厳原というと高校山岳部の時、午後4時の気象通報の時間に天気図を書く練習をしていた時に読み上げられた地名で何となく親近感があった。バスガイドが言う。対馬壱岐の国分寺は正式には島分寺だ。この国分寺は万松院の近くにあった物だが1480年頃移築された。更に山門は1807年頃に建立されたという。国分寺・国分尼寺は聖武天皇が731年(天平13年)国家鎮護のため全国の国司に命じて造らせた物だ。国分寺は伽藍配置が大体決まっている。南大門・中門・金堂・講堂・東塔・西塔だ。M教授は塔が建っていたであろう付近を指さして「ここ掘りたいなーと言う」ここの山門が珍しい。4本の柱で建っている。ここを後にして和多都美神社に向う。沖の方から鳥居が5つ並んでいる。干潮時には沖の鳥居まで歩いていけると言う。そしてここには3本足の鳥居がある。日本にも3本足の鳥居は京都太秦の蚕ノ社の木嶋神社と墨田区の三峰神社が有名。旧暦の8月1日に祭りがあり、相撲の奉納が行われ、海ではフナズロウが行われる。ズロウは競争のことで手漕ぎボートで競争するのだそうだ。長崎のペーロンに似ている。
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国分寺
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朝鮮通信使の碑 ここが接遇の場所として使われた 朝鮮通信使は1607年から
1811年まで続いた
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山門 柱が4本あるのが特徴
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龍の柱飾り
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和多都美神社 沖に鳥居が建つ
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和多都美神社 三本柱の鳥居 天地人を表し、三角形の上部より天の力を取り入れる。 左端は説明してくれたバスガイド

壱岐島の最後の訪問地は壱岐神社・壱岐護国神社である。この神社の創建は新しく創建は昭和19年である。日本各地にある護国神社とおもむきが違うのは太平洋戦争で国威発揚のための目的ではない。昭和3年から元寇と戦った少弐資時を祀る為の事業を進めた。資時は文永の役の時に12歳で初陣、公安の役で壱岐島を占領する蒙古東路軍と戦うが壱岐島前の海上で戦死 享年19歳 現地ではショウニイ様と呼ばれている。御祭神は国難事変に際して深き御神威を表したまひ、平時においては国家の平和を護らせたまう神々である。この後私たちは壱岐芦辺港から対馬厳原港へジェットホイルで向かった。約1時間5分の船旅である。
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壱岐神社・壱岐護国神社
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壱岐神社
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壱岐神社 拝殿
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壱岐神社 全景
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少弐資時の像
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厄除でなく厄祓いになっている

曽良の墓に行く前に掛木(かけぎ)古墳に寄った。長崎県の古墳の約60%を占める壱岐には古墳時代の5〜7世紀前半にかけて多くの古墳が築造された。江戸時代の壱岐国風土記には338基と記載されている。現在のところ260基以上の古墳が確認されている。円墳が多く、前方後円墳は対馬塚古墳と双六古墳で、双六古墳は91mあり、九州で5番目の大きさである。前方部が高さ5m、後円部は高さ10、5m横穴式石室である。掛木古墳は中に入れる。但し8人位までで私たちは交代で中に入った。羨道・前室・中室・玄室の三室構造両袖式の横穴式石室。玄室にはくりぬき式家型石棺とその蓋が残っていて実際に触れるが出来る。前室・中室・玄室の構造はピラミッドと同じだ。中室が祈りを捧げる場所だ。円墳は宮崎県西都原や韓国慶州のものと似たところがある。この掛木古墳のそばに壱岐風土記の丘・古墳館があり、入場料は100円だ。壱岐の鬼伝説 昔の人たちは大きな岩で組まれた石室の上に土を盛って造った古墳を「人間の手によるものでなくきっと鬼が造った棲家に違いないと考え古墳を「鬼の窟・石窟・鬼屋」などと呼んでました。壱岐には5万匹の鬼が棲んでおり、豊後の国から派遣された百合若大臣(ゆりわかだいじん)という若武者が全て退治したと伝えられています。
 築造された古墳の中には、捕鯨の様子を線刻画で描いた鬼屋窪古墳や大米古墳があります。
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掛木古墳全景
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入り口で順番を待つメンバー
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入り口部分
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玄室に横たわる石棺 左手に蓋があった。
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壱岐風土記の丘古墳館
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古墳の分布 島の中央に集まっている

ビューホテル壱岐に着くまでの間、バスガイドさんからホテルの裏側にある春一番の塔がある事を教えられた。朝散歩がてらに登ってみる。安政6年(1859)本居浦の漁民たちが五島沖で南風(春一番)に遭い、多くの人命が失われた。春一番と言う言葉はこの遭難事件に由来すると言われている。2日目もバスで観光 最初は月讀(つきよみ)神社である。日本書紀によれば、顕崇天皇3年(487)阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が命により任那に遣いにでた時、我が祖高皇産霊(
たかみむすび)は天地を創られた功がある。民地をもって奉れ、我は月神なり。そのようにすれば、慶福が得られるだろう」との月神の宣託があり、その内容を天皇に上奏、朝廷は山城国葛野郡の歌荒す田(うたあらすだ)を奉り、壱岐の県主の祖・押見宿禰(おしみのすくね)が、壱岐より月神の分霊をおこなう。これが京都松尾大社の摂社月讀神社で壱岐の月讀神社が元宮です。
次に曽良の墓に参る。曽良は芭蕉の奥の細道に随行したことで知られているが、それが分かったのは昭和18年であった。62歳で巡検使に任命され、壱岐に行く。壱岐の勝本で病に倒れ客死。春にわれ 乞食やめても 筑紫かな
曽良に関しては司馬遼太郎の「街道を行く13」に詳しく出ている。
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春一番の塔
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ビューホテル壱岐
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月讀神社
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曽良の墓

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