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谷川岳・苗場山の山旅と富岡製糸場 6

フランス人技師長ブリュナと政府役人尾高惇忠(いとこ渋沢栄一に論語を教えた教育者肌の人)は工場立地を長野県・埼玉県・群馬県に絞ります。工場立地条件は1、養蚕が盛んなところ、2、広い用地が確保できる。3、大量の水を確保できる。4、蒸気機関の燃料の石炭が近くで取れる。そこでガイドが皆んなに質問した。最後5つ目はなんだと思いますか?働き手が確保できる。と答えた人がいたが「それも大事なことですがもっと当時の人の意識です」と言われてもみんなわからなかった。「外国人が来られることに同意が得られたことです」と当時赤ワインを飲む外国人を赤い血を飲む人たちという噂が流れたような世情ですから敬遠されたのでしょう。工女募集にもそれが影響しましたが、尾高惇忠の娘「ゆう」が応募しそれから徐々に工女が集まりました。当時これらの工女の労働時間は7時間45分の2交代制でした。ただし繁忙期には10時間・12時間労働もありました。これは電灯が普及し始めた食堂、お風呂、診療所が工場内にあり、宿舎は6畳に3人から4人で出身府県別にわかれ、部屋は106室ありました。明治25年には前橋に電灯会社が設立され、電灯が灯るようになると生産体制も年一回から春蚕・夏蚕・冬蚕というように飛躍的に生産体制が拡大しました。これは蚕の性質をよく研究していた高山長五郎のの存在がありました。彼は養蚕研究を熱心に行い、蚕の飼育に「清温育」を発案しました。これは蚕の飼育法で温度と湿度の管理が大切であり、蚕にとっての適温は23度を保ち、風通しに万全を期した。昔から言われる上州名物『かかあ天下とからっ風」は養蚕業では嬶の方が夫より経済力があったのとこの上州はからっ風が吹く蚕の生育に適した土地だったことから呼ばれるようになった。この頃ヨーロッパではイタリアやフランスも養蚕業が盛んでしたが蚕の病気がはやり生産は極度に落ち込んでいました。ヨーロッパの商人は最初は中国に来ていましたがアヘン戦争や内乱で中国は輸出できる生糸が少なく、日本の生糸が求められるようになりました。日本の生糸は品質がよくTomioka Silkと呼ばれ、当時日本の輸出品では上位を占めました。これが日露戦争の軍資金になったと言われています。

IMG_0228富岡製糸場正門

IMG_0246にっさんHR型自動繰糸機

IMG_0262工女の宿舎

IMG_0260宿舎の内部



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