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むかごご飯

2024年11月02日

家の裏庭にむかごが今年も多く実りました。300g収穫そこでむかごご飯にしました。

女房は携帯でむかごご飯の作り方を調べその通りに炊いたそうです。結構おいしかったです。1日に100g使い約3回むかごご飯ができそうです。

DSCN7870むかごご飯


10月6日恒例の方違神社の子供神輿と布団太鼓が我が家の前にも来た。例年くるのだが30年以上前は子供も参加していた。祭りの前になると神社の氏子がお布施を集めに来た。私の家は3人の子供がいたから300円ぐらいいつも払っていた気がする。神輿を引いたり、布団太鼓を引いたりして楽しんだ。またその時に祭りの青い衣装も着せてあげた。その頃からずっと変わらない姿で引き継がれている。家の前を通るのはお布施を渡さなくなってからもずっと通ってくれている。子供が大きくなったから集めに来ないのか、その辺のことはわからない。ありがたいし、近所のお子さんの姿も見れる。暑かったけれど秋が来たような気がする。

DSCN7739子供神輿

DSCN7740子供神輿

DSCN7741子供神輿

DSCN7742布団太鼓

DSCN7743布団太鼓

DSCN7744布団太鼓


米沢藩と上杉鷹山

2024年09月22日

9月始めに米沢に行った。米沢は東北新幹線に連結された山形新幹線で行ける。福島で東北新幹線からツバサの車両を切り離して米沢に約1時間で到着する。米沢は上杉鷹山で有名な街である。鷹山の藩経営哲学は現代にも通じており、バブルが弾けた頃の1992年ごろから盛んに取り上げられた人物である。鷹山は高鍋藩の江戸屋敷で生まれた。幼年期から学問を好みすぐれた才能の持ち主であった。鷹山(治憲)が米沢藩の藩主になる前の米沢藩は財政が大変貧しく度重なる凶作で藩としての維持も難しい状況の中19歳で藩主になった。鷹山公以前の米沢は慶長5年関ヶ原の合戦で豊臣方についた上杉軍は会津120万石を没収され米沢30万石に移封されました。藩主上杉景勝の側近だった直江兼続は藩の収益の増大を図るために様々な施策を実行しましたが、その一つが桑、青苧、紅花でした。上杉謙信を祖先とし、代々上杉家としての誇りを体現したのが兼続です。それから約170年鷹山公が米沢藩を治めることになるのですが、兼続の精神は受け継がれていきます。

明和6年彼は家臣を集めると倹約、公平、清潔を政策の基本とし竹俣当綱、莅戸善政の二人を政策の実行役とした。倹約令は実施され藩の財政も少し持ち直してきた。鷹山が次に取った政策は殖産興業である。新田の開発、橋の架け替え、川さらいと土手の補強、備籾蔵の建設など精力的に進めたが、4年後以前からの老臣が、訴状を持って詰め寄った。しかし、訴状の内容は事実に反したもので老臣たちは処罰された。見事鷹山は危機を乗り切った。これを機に下級藩士で優秀なものが抜擢され積極的な産業の開発となった。その頃の米沢藩の重要な財源は青苧、蝋だった。それから2年後竹俣当綱は漆、桑、楮各100万本計画を発表特産品作りに励んだ。このほか小野川に製塩所を開き、墨・硯を作り、和紙の生産、藍園も開いた。青苧・繰り綿を藩財政の立て直しに使っていたが、安永5年越後松山の縮師源右衛門一家と職工2人を招き、婦女子に織物技術を教えた。そして何よりも鷹山の側室お豊の方が織物技術の普及に一役買った。お豊は鷹山より10歳年上で鷹山の正妻幸姫が30歳で亡くなった後鷹山の良き理解者であった。

藩政改革の要は人材育成であると、鷹山も竹俣当綱は感じていた。そこで鷹山は自ら細井平洲を江戸に訪ね、米沢に来てもらうこととした。白子神社の隣の松桜館で講義が始まったが藩内には藩の恥だと反対すものもいた。平洲の実業のための学問である講義は広く藩内に行き届いて、安永5年平洲が命名した興譲館が完成、塾長には神保欄室がなった。平洲の在米沢期間は短かったが2070名の聴講者を数えた。

天明3年の大飢饉は奥羽地方にとてつもなく大きな災害をもたらしたが、坂田新潟から米約一万俵を買取り飢饉に当てた。おかげで人口減少は全国平均5パーセントを下回り2,3パーセントだった。

寛政2年藩政に関する改革の意見を藩士求めたところ340通もの多くのぼった。黒井半四郎による黒井堰の完成は総延長44kmの水路で米沢北部から南部に水を引き、灌漑面積9平方キロメートルに及んだ。そして莅戸太華の政策によって衣部は桑・青苧・繰り綿食部は米・麦・栗・大根・鯉 住部は松・杉・桐 雑部は油・膳椀・硯などの増産が図られた。

歩道の隣に店<br />
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低い精度で自動的に生成された説明カレンダー<br />
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自動的に生成された説明米沢神社のそばの米沢市博物館は鷹山の業績を余すところなく伝えていた。私はその後上杉謙信の像や上杉景勝・直江兼続・上杉鷹山の銅像を見て回った後、米織会館に向かった。米沢織を開発したのは鷹山公であり、以前からあった青苧を原料とした織物から、置賜地方の養蚕を基礎とした絹織物製造に移行し、出羽の米沢織として全国に名声を馳せることとなりました。大正時代には米沢高等工業学校(のちの山形大学工学部)教授秦逸三が日本で初めて人絹の製造に成功、米沢市館山に帝国人絹株式会社(現帝人株式会社)を創設しました。米沢の織物業は伝統的な絹織物から発展し、現在は天然繊維と化学繊維による服地、呉服から総合的なテキスタイルの産地を形成し、全国でも類を見ない繊維の総合産地になっています。

P9030095上杉鷹山公

P9030100上杉謙信(長尾景虎)

P9030097上杉家の武将達

P9030092米織会館 米沢織を展示している

P9030101上杉鷹山の哲学



高妻山は100名山に入っているが戸隠山は入っていない。なぜだ。1日目は戸隠高原に泊まることにした。戸隠といえば、牧場やスキー場、そばが有名である。1日目は戸隠民俗館・戸隠流忍法資料館・手裏剣道場と遊んだ。戸隠神社も大層の賑わいだった。私は麓のバンガローに寝袋一つで泊まった。テントも持参したがバンガローと値段が変わらない。またバンガローは電気がついているので便利だった。

9日は早朝4j時40分にバンガローを出て7時35分一不動避難小屋 ここでゆっくり朝食を取る。9時30分5地蔵山頂10時六弥勒通過時に変な胸騒ぎがした。実は女房の母の容態があまり良くなかったのだ。今年3月の誕生日で97歳だった。去年より施設に入れたがやく16年間一緒に過ごしたこともあり、何か後ろ髪引かれる思いでの登山だった。六合目の弥勒を過ぎて妙に胸騒ぎがした。おばあちゃんが呼んでいるのかも、あと2時間で頂上だが、登山を諦めて下山した。松本に出て善光寺にお参りし、10日に帰った。おばあちゃんは11日の午前9時に亡くなった。

P6080055手裏剣の数々

P6080054忍者衣装

P6080056左毒薬 右目潰し

P60800632007年に行われた戸隠流忍法


新潟県長岡市で開かれる全国一の花火大会は8月1/2/3と開かれる。2日が最高らしい。元は長岡に軍需工場があり、アメリカの空爆を受けて多数の人が死んだ。その鎮魂の意味ではじまったと聞く。当初は長岡市が主催していて無料だったが、大勢の人が訪れるようになって第三セクターに運営を委したところから鎮魂より観光名物になったというのがこの花火大会だ。友人の紹介でたっぷり2時間30分楽しませていただきました。

DSCN0072信濃川河川敷で行われる。

DSCN0069机の席とブルーシートの席がある

DSCN0077花火は一回にスポンサーや花火の特徴が示される

DSCN0078最初の花火

DSCN0086大型の花火

DSCN0097色変わりの花火

DSCN0106終わりごろの花火 能登鎮魂






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