本日 238 人 - 昨日 257 人 - 累計 557456 人
RSS

江ノ島鎌倉旅行7

2019年03月27日
鎌倉駅から北西方向約1,5キロの所にある銭洗弁財天宇賀福神社に行く。源氏山公園に隣接する谷間にある。1185年(文治元年)巳年巳の月巳の日巳の刻に源頼朝の夢枕に宇賀福神が立ち、湧き水で神仏を祭るようにお告げがあり、この地に社を作ったのが始まり、後に北条時頼が巳年に銭を洗い、一族繁栄を願った事から現在にいたる。以来境内の洞窟には御利益を求める老若男女が詰めかける。
私は3570円お札と硬貨を洗ってみた。
DSCN8161
鎌倉駅の江の電側から約25分
DSCN8156
境内
DSCN8159
洞内に祀られている神様
DSCN8158
お金を洗う場所 柄杓で湧き水を掬い、ざるに入れたお札や硬貨を洗う
DSCN8154
記念撮影

江ノ島鎌倉旅行6

2019年03月27日
花紀行 長谷観音寺の境内は花の名所としても知られる。
DSCN8124
ミツマタ 園芸種 ミツマタはうすいクリーム色か黄色
DSCN8131
ボケ 真っ赤な色 園芸種にはピンクもある
DSCN8133
ミズキ
DSCN8142
馬酔木(あせび) この根で馬一頭殺す事が出来る程殺傷力がある
DSCN8119
ヤマザクラ?
DSCN8122

江ノ島鎌倉旅行5

2019年03月27日
長谷寺の境内を散策するのは楽しい。弁天窟は弘法大師が修行する為にこもったと言われる。洞窟の中に刻まれているのは弁財天とその眷属である16童子である。洞窟の出口は低い天井なので注意を要する。経蔵は教典を収める為のお堂ここの回転式の書架を一回転させる事によって一切経(いっさいきょう)を読破するのと同じ効果がある。但しまわす事が出来るのは18日のみ。チベット仏教で用いられる
マニ車(摩尼車)と同じような効用だ。マニ車は転経器と訳される。チベットでは庶民までが教典を読んだり、理解したりできなかったので庶民の為にこのような手法がとられた。又まわす事によって教えがどんどん広まっていくような願いも込められている。見晴し台からは由比ケ浜・三浦半島が見えるはずだったが、舫っていた。
DSCN8121
放生池の上にある観音像
DSCN8130
観音堂 11面観音菩薩が鎮座する
DSCN8137
弁天窟 弁財天像
DSCN8138
16童子像が彫られている
DSCN8126
見晴し台から三浦半島・由比ケ浜を望む

江ノ島鎌倉旅行4

2019年03月24日
長谷駅にはもう一つ有名なお寺があるそれが長谷寺(浄土宗系)だ。お寺の拝観料は300円拝観券には次のような案内がある。「本尊11面観音菩薩(通称長谷観音)は、奈良時代に樟の木の霊木より創出されたと伝えられ、古来より、坂東観音霊場の第4番札所として民衆の信仰を集めて参りました。像高9,18m本邦最大級の木造観音です。境内は観音堂を中心に阿弥陀堂、地蔵堂、経蔵等の伽藍とともに、花浄土を醸す四季折々の花木、相模湾の雄大な眺望を御楽しみいただけます。
サライより「長谷寺は鎌倉幕府創建より450年も前にさかのぼる聖武天皇治世の736年に開創した」鎌倉有数の古寺である。寺に伝わる縁起によれば、721年に大和国(現在の奈良県)の長谷寺の開山である徳道上人の本願により、2人の仏師が巨木から2体の観音像を3日3晩で彫り上げたという。その内一体は大和長谷寺の本尊となり、もう一体は衆生済度の誓願をこめ、開眼供養を修した行基によって海中に奉じられた。15年後この観音像は相模国の沖合の海面に忽然と現れる。大和長谷寺の開基・藤原房前が駆けつけ、観音像は鎌倉へと遷座され、鎌倉長谷寺開創の礎になったとされている。
DSCN8116
長谷寺入り口
DSCN8175
寺の案内図 観音山の斜面に観音堂・阿弥陀堂・書院・弁天窟
大黒堂宝物館・経蔵・地蔵堂と並ぶ
DSCN8117
庭が美しい、紫陽花寺としても有名
DSCN8177
11面観音菩薩 観音堂は1986年に建て替えられた

江ノ島鎌倉旅行3

2019年03月24日
鎌倉大仏の見学には外人も多数来られていた。オーストラリアから来たご夫妻が大仏を見てワンダフルと良いながら写真を撮っていた。そこで二人一緒にと言って写真を撮ってあげた。英語で元は社殿があった事を告げる。社殿のことが英語でなんていうのかわからなかったのでビルディングと言ったが、よく分からなかったようだ。そこでウッディビルディングと言ったが伝わらず、最後にmade by WOOD
またlike NARA big buddahと言うとおーおーI see Iseeと言ってくれた。ついでに The woody building was gone with Tsunami.というと「津波」といっておーit's terribleと言って顔をしかめた。津波は世界共通の言語と気づかされた。鎌倉の大仏は拝観料20円で大仏の中に入れる。入り口から十段位の階段を上ると中は20人も入ればいっぱいになる程の狭さだ。ここから大仏の頭の内側まで見れる。
台座の所はがっしりした鐵の構造物で補強されている。この補強は関東大震災(大正12年9月1日)に被災され、「基壇破壊。全面で一尺沈下、大仏一尺以上前に滑り出し、僅かに西寄りに向く。」と記載されており、また翌年の1月15日の余震で「像身少し後退、基壇更に破壊」に基づいている。相模沖が震源の関東大震災はこの地区に大きな災害をもたらした。中の説明板には「13年の11月に工を起こし、翌14年5月に竣工、修理は工学博士の内田祥三氏を顧問に向え戸田組(現戸田建設)改修、仏身は帝室技芸員新海竹太郎氏、安倍胤斎氏により修理が行われた、平船知事清野長太郎氏が修理竣成にあたり一言その始末を記るせり」とある。」
大仏の頭の部分
大仏の頭の部分 内側から
胴体内側
大仏の胸辺り 内側から」
台座部分
台座の部分 内側から
補強
補強
銘板
銘板

江ノ島鎌倉旅行2

2019年03月22日
鎌倉の大仏は江の電の鎌倉駅から3つ目の長谷駅で下車徒歩7分位の所にある。高徳院という浄土宗のお寺で拝観料は200円入館券の裏に大仏の説明が載っている。「鎌倉大仏の名で親しまれている高徳院の本尊、国宝銅像阿弥陀如来座像は、1252年(建長4)から10年前後の歳月をかけて建立されたと見られる。製作には僧浄光が勧進した浄財が当てられたと言う。鋳工として丹治久友・小野五郎右衛門の名を記す資料もあるが、原型作者も含め、創建に関わる事情の多くは謎に包まれている。尊像を収めていた仏殿は1334年(建武元年)と1369年(応安2)に大風で損壊したらしい。15世紀以降同仏殿が再建された形跡は認められない。台座を含め総高約13,4m 仏身高11,3m重量121トン」
大風で損壊したとあるが、鎌倉(実業之日本社)には1495(明応4)年、Web
からは明応7年8月25日の東南海地震および東海地震が発生し、その時の津波で殿舎が流失しましたと載っている。大仏は海岸から800m離れており、標高は12〜13mあります。ただそのころは海岸線がもっと近かったのではないかと推測される。
DSCN8103
高徳院入り口
DSCN8104
金剛力士像
DSCN8106
鎌倉大仏
左]DSCN8109
礎石 mこの上に殿舎があった

江ノ島鎌倉旅行

2019年03月21日
3月15・16日と法事をかねて江ノ島・鎌倉に行った。江の電の駅名は江ノ島だが、小田急電鉄の駅名は片瀬江ノ島と呼ぶ。小田急は海よりに駅があり、もともとここは片瀬と呼ばれていた。漁港も片瀬漁港である。江島神社は片瀬江ノ島駅から約15分弁天橋を渡って土産物屋や飲食店のある参道を抜けると最初にあるのは辺津宮そして中津宮・奥津宮がある。御祭神は3人姉妹の女神様だ。神社の社伝によると欽明天皇13年(552年9に、欽明天皇の御生・神宣により詔して宮を東南の竜穴に建てられ一歳二度の祭祀この時に始まる」とあります。これは欽明天皇の勅命で島の洞窟(岩屋)に神様を祀ったのが江島神社の始まりである事が記されています。欽明天皇は聖徳太子より少し前の時代の天皇で、この頃日本では仏教が公伝されに日本固有の神道と外来の仏教がともに大事にされていました。
辺津宮
辺津宮
DSCN8095
DSCN8096
辺津宮 縁結びの神様だ。女性の参拝客が多い
DSCN8100
江の電 1500形車両