信楽焼は室町・桃山時代に茶道の興隆とともに茶人に愛用されました。江戸時代になってのぼり窯(古墳時代から使われていた物で当時は須恵器の生産に使われた)がつかわれるようになってからは焼き物は庶民の物となっていった。のぼり窯の特徴(大きな器や大量生産に向く)特に茶壺を主として水壷・味噌壷・すり鉢・徳利皿等を生産、又火鉢の生産は明治大正昭和を通じて全国で90%のシェアがあったと言われています。しかし燃料革命で電気.石油暖房器具が普及し始めると需要が亡くなり、代わりに植木鉢の生産や庭園の陶器、インテリア、花器等に移っていきました。信楽の狸は江戸時代から作られ始め最初は茶会の場で飾り物として着物を着た狸であった。明治の終わりから大正にかけて徳利・通帳をもった酒買小僧スタイルの狸の焼き物が作られ福徳狸と呼ばれ評判を取った。さらに昭和26年天皇行幸の時に「幼などき あつめしからになつかしも 信楽焼のたぬきをみれば」と詠われてから「陶製たぬき」の産地として有名になりました。天皇は幼児期に狸のコレクションをしていた事をおもいだされて詠いました。これが新聞報道されたのです。
信楽焼狸のかずかず



信楽焼狸のかずかず




どうも悪い記憶で申し訳ないが私はあの信楽高原鉄道事故を思いだしてしまうのである。1991年5月14日信楽が世界へ向けて発信した世界陶芸祭の場で起こってしまった事故だ。京都発の3両編成の特別列車には600人もの乗客が乗っており、ほぼ満員だった。それが信楽発の4両の普通列車と正面衝突してしまうのである。41名の死者と400名の犠牲者が出た事故だ。この後JRは各地で乗り入れを解消している。今は一両のみで列車の対抗は無い。だからほぼ1時間に1本の割で運行されている。私は14、7km車窓から晩秋の景色をたのしんだ。信楽の焼きものは陶器の歴史としては古い物ではない。古いと言えば日本列島には土器や埴輪須恵器等があげられる。しかし産地として成り立つ信楽焼は常滑の影響を受けて鎌倉中期頃から始まったと言える。日本六古窯では一番後になる。信楽の古窯跡は信楽高原鉄道の沿線にあり、五位の木や南松尾には10数基以上集まっていたとされる。優れた陶土は焼成によって得られる暖かみのある緋色自然釉によるビロード釉と焦げの景色の融合は「さび・わび」の世界に通じる物として古くから親しまれた。
信楽高原鉄道 晩秋の渓谷を走る
信楽高原鉄道 晩秋の渓谷を走る
各駅に狸の置物が出迎え
各駅に狸の置物が出迎え
信楽焼は大型の仏像や観音様等得意とした








