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彼女との話は続く。日本で流行った「飛んでイスタンブール」を知っているか聞くと知らないという。次に歌の名前は知らなかったが多分西田佐千子が歌っていたウシュクダラギダリッケンオールドビリアンルームと歌いかけると知っていると言う。ウシュクダラは町の名前で美しい街であるとのこと。発音はウスクダエだ。USKUDAEそして歌詞にあるように美しい女がいっぱいいるのか聞くとそれはわからないと言う。本当のところ大笑いされたのである。日本語に訳されているものはかなり大袈裟かもしれない。彼女の名前はnamal=BURCU BASARだった。この宿にはもう一人フランス人のおばちゃんが泊まっていた。夕食の時間彼女はマルちゃんのラーメンをフォークで食べていたのが印象的だ。まるでスパゲティを食べるように。

7月31日午前4時50分起床出発準備をする。朝食はパン2枚とコーヒーだ。5時30分ケイズハウスを出る。出発しようと靴を履いているとBURCUが見送りに来てくれた。トルコの女性はなかなか情があるんだと、嬉しくなった。

6時前にロープウェイ駅に到着するともう登山客でいっぱいだった。6時発で頂上駅に6時10分に到着。ここで登山届けを出して、すぐさま登る。8時に8号目に到着。

思ったより寒くない21度℃だ。8時48分頂上に到着。頂上には三十人くらいいただろう。頂上から十勝岳やトムラウシを見る。トムラウシは双耳峰で高いほうだ。と教えられる。快晴で気持ちいい。

P7319907トルコ女性 BURCU

P7309893ビジターセンター

P7319910ロープウェイの中

P7319918旭岳を見る。

画像姿見の池

P7319936旭岳を見る



7月30日から3泊4日で大雪山と十勝岳への登山計画を立てた。食料やコンロ・アイゼンなど詰め込んで重量は12,2kgになった。

早朝のピーチで関空から千歳空港に行き、札幌から特急ライラックで旭川駅へそこから旭川電気軌道のバスで旭岳温泉入口で下車するのだ。14時44分に旭岳温泉入口についた。この停留所のすぐ前が本日泊まるケイズハウス北海道だ。ケイズハウスは自炊施設が整っていて食料だけ持ち込んだらいいようになっていた。また朝食にはパン2枚とコーヒーやジャムのサービスがあった。早速荷物を置くため通された部屋は311号室だった。時間が早いので近くにビジターセンターがあるので見学に行く。それと明日のロープウェイの下見である。ビジターセンターで大雪山の四季をビデオ鑑賞、初雪は10月下旬にあるとのこと、夏は短く7月から8月下旬までらしい。ロープウェイは切符売り場のそばにコインロッカーがあってここに荷物を置けるようになっていた。明日はここに40Lのリュックを収め、サブザックで登るようにすることにした。

再びケイズハウスに戻ると同じ部屋に女性がいた。一瞬部屋を間違えたのかと思ったら、外人女性がミックスという。そうかミックスかでも不思議だった。夕食を作るためキッチンに行くと彼女も何か作っている。彼女は笑顔で自分はトルコ人で東京の東洋大学大学院で国際的な法律を学んでいるという。まだ日本語はあまり喋れず英語でほとんど会話した。私は10年前と8年前にトルコに行ったことを話すとすごく喜んだ。ペリーダンスを見たこと、彼女はベリーといったが、それからエフェソス遺跡を見学したこと、この遺跡のニケはスポーツメーカーに使われていることなど話した。

NIKEはナイキとも呼ばれると言ったら彼女は初めて聞く話だと驚いていた。

P7309855特急ライラック

P7309885旭川電気軌道のバス

P7309874ケイズハウス北海道

P7309866ケイズハウス北海道の寝室

P7309869ケイズハウスの食器

P7309872ケイズハウスのキッチン

P7309873ビジターセンターでヒグマ


朝青とゆかり

2021年08月27日

残暑が戻って来ました。しかしこのところ朝顔が元気です。毎日30輪から40輪の花を咲かせています。階段に這っている朝顔はこぼれ落ちた種から花を咲かせたものです。一方窓側の朝顔は植木市で買って来たものですが、花に勢いがありません。北側に向いているせいでしょうか。

昨日ゆかり(しそのふりかけ)を作りました。梅干しを作った時の紫蘇を乾燥させ、カラカラになったものをコーヒーミルで挽きました。そして最後塩をフライパンで焼き少しだけゆかりに入れて味を整えました。

暑いと何をするのも嫌になります。源氏物語にこういう和歌がありました。

『水鳥を 水の上とや よそに見ん 我も浮きたる 世を過ごしつつ」

P8250191朝顔

画像朝顔北の面

P8260196干した紫蘇

P8260195コーヒーミルで挽いてゆかりに



足尾文化交流館を一通り見終わった後、実際に使われていた坑道に入った。通洞抗と呼ばれ名時」29年(1896)。に開鑿されたものだ。トロッコ列車のような車両に乗り構内に入っていく電気機関車は昔坑道で使われていたものを改良している。蓄電池で動く。坑内は少し涼しい。いろいろな展示が坑内に置かれている。それが時代とともに近代化して行っている。足尾のまちは一番繁盛していた時の人口は5万人いたという。古河市兵衛は足尾銅山を買い取る前に3つの鉱山を経営していた。足尾銅山を買った後に大きな鉱脈が発見されそれが古河コンチェルンを築く元になった。そしてフランスより採掘技術や採掘器具などの導入により大きく発展して行ったのである。しかし精錬過程で大きな被害をもたらした。ここから出る煤煙は上流部の村の農作物を全滅させた。上流部の村は明治時代に全村移転させられた。そして鉱毒を含んだ水を渡瀬川に放流したため下流域の農村に甚大な被害を及ぼした。田中正造は日本で一番早く公害問題に取り組んだ政治家です。衆議院議員になってから何回となく国会で鉱毒問題を取り上げましたが受け入れられませんでした。また当時農民は作物ができないのは鉱毒のせいで何回も国会へ請願デモ(当時は押出しと呼んでいた)を繰り返しますが拉致が開かないままに、政府は谷中村を強制廃村とし、渡良瀬遊水池としましたがこれに反対した正造は谷中村に住みつき反対し続けました。彼が明治34年に天皇に直訴した話は有名です。足尾銅山は昭和48年に閉山しました。今足尾銅山はその産業遺産を未来ん9つ耐えるため、又煙害によって失われた緑を復活させるべく国や県・NPOが植樹作業に関わっています。

P7110004手彫りの坑夫

P7110010トロッコ

P7110016電動車を導入

P7110021削岩機 スウィッチを押すと作動する

P7110024通洞抗前で記念撮影


華厳の滝からおかじんに戻ってすぐ夕食となった。女将さんが切り盛りしているが時折主人が出てきて事務室のようなところで釣りの情報誌とやりとりをしている。今はこれが主な仕事だという。女将さんの年齢は81歳だ。でもまだ頑張らなければならないという。風呂上がりに足尾銅山に行く計画を建てた。私は以前足尾銅山に行く経路を調べたことがあるが、この時は渡瀬鉄道に乗っていくものだった。今は日光から日光交通のバスが一日6本出ている。所要時間は53分・料金1200円だ。桐生からわたらせ渓谷鉄道も出ているがこちらは90分かかる。運賃は1130円あまり変わらない。日光9時35分発で10時28分に洞山観光前で下車した。土砂降りだった。

すぐそばに市民センターがあり、その2階が足尾銅山文化交流館になっている。入場は無料で土日祝と木曜日が開館している。冬季は12月から3月まで閉館しているので注意を要する。文化交流館に見学者は私ともう一人いたが、そんなに関心を示さず10分ぐらいで帰ってしまった。私が詳しく見てるとボランティアの60すぎぐらいの男性が話しかけて来て熱心に案内してくれた。まず足尾銅山はの発見者は百姓治部と内蔵と記され二人の生まれた国は備前であるという。このふたりが足尾に来て黒岩山に登り、銅の露頭頭部を発見したということである。1611年に江戸幕府に銅を献上、そして寛永年間は日光山主天海大僧正が足尾銅山を経営したと、1648年になって幕府の御公儀御用山となった。ここから幕府が開発に力を入れ、年間1500トン生産したという。そして銅は江戸城や日光東照宮の屋根瓦に使用された。幕府はこの銅をオランダや中国にも輸出したという。しかし銅を掘り過ぎて、幕末には休山状態になったという。明治に入り栃木県の管轄になり、明治10年(1877)に古河市兵衛が足尾銅山を買い取った。

P7109938男体山の頂上より高い場所がある

P7109956[/左下りの3号目で猿を発見

P7109957同じく猿

P7109972華厳滝

画像民宿おかじんの女将さん81歳現役

P7119978民宿おかじん横にある車で登山口まで送ってもらった

P7119985足尾銅山文化交流館にて真ん中のは消火器・横は電話

P7119990足尾銅山文化交流館にて 銅製品の数々



三合目を出ると舗装道路にぶちあたりこの道路を少し進んで4合目に入る。若い子ら九人に追い抜かれる。10時10分5合目到着、下山者7名あり、ここに避難小屋があった。11時25分7合目到着、12時20分8合目の瀧尾神社到着、瀧尾神社といっても小さな祠があるだけだ。ここでクラブツーリズムの集団登山者に追い抜かれる。かなり年いった人も参加できていた。リーダーに聞くと最近は年齢制限していても70歳くらいの人も応募してくるので、登山歴など聞いて対処しているという。13時までに頂上に立ちたかったが、以外に消耗した。腹が減っていたので9合目で昼食を取る。14時5分頂上に到着。この頃には晴れてきて少し暑いくらいだ。男体山(2484,2)の頂上よりちょっと高いところがある。ここが本当の頂上(2486)なのか,時折雲が流れて中禅寺湖を隠す。頂上を散策して14時30分に下山開始。3合目まで降りると猿の群れにあった。降るにつれ猿の群れがあちこちで見られた。しかし動きが早くなかなか写真に収められない。帰りは17時30分に二荒山神社についた。少し歩いて華厳の滝を見学した。すでに華厳の滝を見るエレベーターは5時で運転を終了していた。華厳の滝は華厳渓谷にある。この滝は名爆100選に選ばれている。汗をかいてのどがかわいたので500ccのビールを買って民宿「おかじん」に戻った。

P7109896舗装道路と4合目

P71099086合目

P71099127合目

P71099278合目付近で樹林帯が終わる。

P71099289合目は赤茶のザラザラした道が続く

P7109931男体山頂上で記念撮影 スパッツをつけている



日光東照宮参拝の後、民宿の「おかじん」に向かった。当初は日光駅前のホテルだったが、なるべく男体山登山に近い宿泊施設を探したところ中禅寺湖温泉のバス停近くで中禅寺湖に面している民宿が見つかった。さらにここの主人が中禅寺湖で釣ったマスを食べさせてくれるという案内があったのですぐに予約した。日光東照宮からバスでいろは坂を通り中禅寺湖温泉で下車、立木観音方面に15分歩いた。民宿「おかじん」は中禅寺湖でマスを釣る釣り客を相手にした民宿だ。だから釣ったマスを料理もしてくれるし、後の処理もしてくれる。そして時々私のような男体山の登山客もいるとのことだった。私はやしおという部屋に案内された。中禅寺湖が窓からよく見える部屋だ。レインウェアーとサブザックはすっかり濡れていた。ザックカバーをしていたので中への雨の浸透はなかった。とりあえずこれらを干した。登山靴はかなり防水液を振りかけてきたので中へ水の染み込みはなかった。登山用具の整理を終えると早速夕食をご馳走になった。天ぷらと刺身、そしてマスの姿焼きだった。私が女将さんにこれは主人が釣ってきたものか聞くと、主人は足が動かなくなったので、もう釣りに行ってないという。このマスは養殖のマスでヤシオマスというのだと。栃木県の水産試験場がヒメマスを改良したものだとの話だった。

翌日 明け方は少し雨が残っていた。7時に朝食を取る。女将さんは男体山の登り口の二荒山神社まで送ってくれた。この二荒山神社で入山料1000円を払って、7時50分登山を開始した。雨は上がったが、草木や根ザサは濡れているのでレインパンツだけを履いた。3合目到着は8時50分だった。

P7099884中禅寺湖湖畔に建つ大鳥居

P7109887 美味しい夕食

P7099886美味しいヤシオマス

P7109888二荒山神社

P7109889二荒山神社

画像笹の中を歩く

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神厩舎から少し行くと陽明門があり、奥に本殿そして右に奥社へ行く道があり、その東回廊に眠り猫を彫った彫刻が掲げられている。陽明門は国宝でいつまで見ても見飽きないことから「日暮れの門」とも呼ばれています。随所に逸話や賢人・聖人・唐子の彫刻が施されその数は500を超えると言われています。本殿は靴を脱ぎ、ぐるっと回り参拝しました。ここでも写経本やお札、写真、本そしてお守りなどが数多く並べられ、商売上手だった。ついついお守りを2個買った。一つは義母へのものだ。もう一つは眠り猫のお守りだ。この後再び靴を履き、東回廊へ向かう。今この東回廊は修理をしていて眠り猫は撮影禁止でない。東照宮の中はほとんど撮影禁止だったのにここだけ禁止されていなかった。そのせいか多くの観光客はこの眠り猫の写真を撮っていた。私は実物がこんなに小さいものと思わなかった。縦15cm横20cmで子猫より少し大きいくらいか、またどこにでもありそうな猫なのでこれがなぜ有名になったのか。この猫の後ろに雀の彫刻があるのだが、暗いのと撮ろうとする場所が立ち入り禁止になっていて警備員が張り付き撮れなかった。猫の彫刻はあまり聞かない。一説によると警戒心の強い猫でも安心して眠りにつける世の中の到来を意味し、天敵である猫が眠っている間に雀が安心していられるようにすなわち弱いものも安心して暮らせる世の中であるという願いが込められていると。この猫の作者は左甚五郎と言われ実在した人物で高松の出身である。

P7099868陽明門

P7099871家康像

画像眠り猫・奥社入り口

P7099875蟇股(かえるまた)にある眠り猫

P7099878奥社

画像拝観を終えて記念撮影



]第4の場面は右側の猿は木の上で前方を凝視している。左の2匹は岩の上にいる。中央の猿は崖からの転落を免れた状況、左側の猿は中央の猿の背中に手を当てている。友達を慰める。あるいは励ましているように見える。右側の猿は座って腕をお腹の前でこうささせ、正面を凝視している。左側の猿は何かを考え、決断を迫られている。(次の面から解釈すると、右側の猿は結婚の決心を固めた猿、一方の猿は、いまだにそれの状況に至っていない猿かもしれない。

第6の場面は左下に渦巻く波、右側の根本には薔薇の花、右側の猿は長い左手を波に差し伸べ、左側の猿は腕組みをしている。2匹とも波を見つめている。右側の猿の上には青い雲、二人で力を合わせれば「人生の荒波」も乗り越えられる。

第7の場面は結婚した二人が協力して荒波を乗り越え、平安な家庭環境を整え子宝に恵まれ、子供が生まれれば親となり、最初の場面の子育てへと辿ることになる。(そして永遠の生命が受け継がれて行く)

子は悪いことは見ない、聞かない、話さない。そして「平安」な心で育てられなければならない。幼児期のあるべき環境を「長春」が象徴している。

P7099859長押に彫られた]全体像

P7099864落ちそうになっている猿

P7099863二人力をあわせれば人生の荒波も越えることが出来る

P7099860最初に戻る永遠の命が受け継がれて行く


輪王寺を出ると東照宮まで砂利道が続く。降り頻る雨で参拝客は少ない。東照宮の拝観料は1300円だ。今までで一番高い拝観料だった。他のところでも宝物館とか別棟に秘仏様があって、拝観料を取られてかなり高くつくところもある。表門を入ってすぐのところに神厩舎というのがありここの長押(なげし)に三猿が彫られている。猿の彫刻は人間の一生を風刺していて中でも見猿、聞か猿、言わ猿の三猿が有名だ。私が見たところこの長押には7枚の猿の絵が描かれてありそれぞれが意味を持つものであった。

最初の絵は手をかざして遠くを見ている母親は空間としての遠方でなく時間としての遠方すなわち未来(子の将来)を見ているその方向は身をつけた枇杷と朱色の雲がある。母親が子供の将来を未来を望んでいる場面で枇杷と朱色の雲は「薔薇色で実り豊か」な子供の未来を暗示している。ここからが皆さんがよく知っている三猿が出てくるのである。どういう意味かというと幼いうちは純心で周囲の影響を受けやすい。だから世の中の悪いことは見聞きせず、悪い言葉も使わせず、良いものだけを与えよ、この時期に良いものを身につけておけば悪いものに触れても正しい判断ができる。

1匹の座った猿まだ立っていない。どことなく寂しそうなのは、孤独に耐えつつもこれからの人生(将来)を考えている。やがて立ち上がれば(自立)一人立ち(精神的にも肉体的にもレベルアップする。

P7099853東照宮への参道

P7099854東照宮

画像神厩舎

P7099859ここ神厩舎の長押に三猿の彫り物がある

P7099860親子の猿

P7099861三猿見猿 聞か猿 言わ猿

P70998621匹の座った猿