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最後はお土産の話
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せんたんこ 5秒水につけたあとばらし、薄く丸くしてみそ汁に入れる

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右 鶴亀触鯛 麦焼酎 中 うにせんべい 左 かすまき(あんをかすてらのでまいたもの)
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鬼凧 鬼の首が百合若大臣の兜に噛み付いている
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ツシマヤマネコのカレンダー
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せんたんこと藻塩

万関橋は「明治後期、南下政策をとるロシアとの戦争の機運が高まり、日本海軍は水雷艇を対馬海峡東水道に出撃させるため、1899年〜1901年(明治32〜34年)久須保水道(万関瀬戸)を開削しました。味方は出撃でき、敵艦の侵入は防ぐよう、姫神山砲台と平行して整備されました。」(対馬歴史観光ガイドブックより)水面よりの高さ30m橋の長さ80余mであったが、昭和28年架け替えsた。このあと厳原港に近い万松院に行く。元和元年(1615)第20代宗義成公が厳父義智の菩提のため創立更に同8年父君の法号万松院に因んで寺号を改めた。私はこの寺にある朝鮮国王から送られた三具足を見たかったのだ。万松院前で駐車すると同じく駐車している車に「国際免許」のステッカーが貼られている。院内には韓国人旅行者がいて話しかけるとレンタカーで来たと言う。なるほどと思った。またここで土産物に「せんたんこ」を買った。これの料理方法もここの受付のおばちゃんに教わった。
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万関橋
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万関橋より運河を見る
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万松院
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万松院
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万松院の内部
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朝鮮国王から送られた三具足

対馬野生生物保護センター開館と同時に中に入る。見物人は2名入場料は無料。係員がツシマヤマネコについて説明してくれる。行く前に電話で聞いた所ヤマネコの状態が悪いときは見られないことがあると聞かされていたのでラッキーだった。ヤマネコは石の上に座ってねむっているようだ。微動だにしない。7分粘ったが全く動かなかった。館内の説明等見て最後にお土産をと思っていたが、ヤマネコの饅頭等なかった。ホテルではヤマネコに関したお土産があったが、ここは余りない。カレンダーを安売りしているので3つ買った。帰りは今来た道を引き返した。万関橋で下車して写真を撮る。対馬の人たちの運転はうまいのかそれとも荒いのか、平気で私たち訪問者の車を追い越していく。対馬は直線の道路がほとんどないので私たちに取っては反対車線に出る事等は怖い。
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天神多久頭魂神社の鳥居の下にあった狛犬?
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ツシマヤマネコ 出没注意
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野生生物センターの倉庫
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ツシマヤマネコ 石の上にじっとしている
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ツシマヤマネコ 石の上にじっとしている
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ツシマヤマネコの生息環境

3日目の午前中は団体行動から外れて一人自由行動をした。対馬に来たからには是非見たい物があった。ツシマヤマネコである。オリックスレンタカーに予約していので軽自動車はホテルまで来てくれて、手続きを済ませるとすぐに出発した。7時45分グランドホテル発 信号が少ないのでわりとスムーズに走る。ナビで走ると浦底から39号線に入ったすると「曽」でねずみ取りのコードを巡査が引張っていた。「おそろしや」こんなところでスピード違反はしたく無い。対馬野生生物センターに行く手前に小さな入り江があった。ここでガードレールに止まっているオオタカを見た。更に行くと天神多久頭魂神社(あめのたくずだま)があり、見学。この神社は「日本三代実録に受位の記載がある古い神社で天道信仰のもう一つの中心地でした。神殿のない磐座(いわくら)の祭壇で有名です。対馬北西部、上県町佐護湊(かみあがたまちさごみなと)に鎮座しており、近隣には神御魂(かみむすび)神社、天諸羽(あめのもろは)神社(式内社)などが鎮座しています。」(対馬歴史観光ガイドブックより)時間は9時20分 開館は10時なので棹崎公園にあがって釜山方面を双眼鏡で見た。水平線に張り付くようにうっすら釜山がみえた。後で野生生物センターの係員に方角を示して言うと間違いないと言う。
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棹崎公園の字のしたに小さく対馬野生生物保護センターの案内板
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天神多久頭魂神社 奥に磐座が見える 
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磐座
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結界 神殿はない
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入り江に向かって建っている鳥居 右側に磐座が見える

対馬は魏志倭人伝によると「(帯方)郡従り倭に至には、海岸に循いて水行し、(諸)韓国を歴て乍ち南し、乍ち東し、其の北岸狗邪韓国に至る。(群より)七千里にして、初めて一つの海を度り、千余里にして対馬国に至る。其の大官を卑狗と曰い、副を卑奴母離と曰う。(対馬は)居る所、絶島にして、方四百余里可りなり。(その)土地は、山険しくて、深き林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海の物を食いて自活す。船に乗り、南北に(ゆきて)市てきす。」
とある。
続いて遣新羅使が対馬で作った歌
ありねよし 対馬の渡り 海中に 幣取り向けて はや帰り来ね
対馬の嶺は 下雲あらなふ 可牟の嶺に たなびく雲を 見つつ偲はも
百船の 泊つる対馬の 浅茅山 しぐれの雨に もみたいにけり
竹敷の 黄葉を見れば 我妹子が 待たむと言ひし 時ぞ来にける
他にも歌があるけれど私が好きな物を取り上げた。
本日は鶏知にある対馬グランドホテルに泊まる
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浅茅湾 沖のイカダは真珠の養殖が行われている
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フジ 竪穴式住居の屋根と柱を結ぶのにフジの茎が使われた(ガイドの説明)
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対馬グランドホテルより 朝陽を拝む

和多都美神社は豊玉姫と山幸彦(ヒコホホデミノミコト)を祀る海宮で古くから竜宮伝説が残されています。兄の釣り針を探す旅に出た山幸彦はここ二位で豊玉姫と出会いました。そして二人は結婚し、幸せにくらすのであるが、この話は古事記・日本書紀にも載っている通りである。神社の拝殿では韓国の旅行者が40名ほどいた。バスに書かれたハングル文字を見ると一泊2日のツアーである。拝殿の前で韓国女性ガイドが色々説明している。私は所々分かったが、スルモグルケヨまたはムルモグルケヨと言ったのに少し引っ掛かった。酒を飲む?日本ではお酒等をお供えと言うが韓国は神様が飲むと理解しているのだろうか?私はガイドにムオモグルカヨと質問すると、「中を見なさい」と日本語でぴしゃりと言われてしまった。神社の後にある鬱蒼とした原生林を見た後、烏帽子岳展望台に向った。天気がよければ韓国釜山が見えるはずだったが舫っていたいた。夏より秋から冬にかけて良く見えると言う。
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和多都美神社の説明板
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豊玉姫のいたところ
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展望台から朝芽湾を望む
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展望台から韓国方面を望む
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私とM教授 展望台にて

対馬厳原港に着くとすぐに国分寺に向かった。厳原というと高校山岳部の時、午後4時の気象通報の時間に天気図を書く練習をしていた時に読み上げられた地名で何となく親近感があった。バスガイドが言う。対馬壱岐の国分寺は正式には島分寺だ。この国分寺は万松院の近くにあった物だが1480年頃移築された。更に山門は1807年頃に建立されたという。国分寺・国分尼寺は聖武天皇が731年(天平13年)国家鎮護のため全国の国司に命じて造らせた物だ。国分寺は伽藍配置が大体決まっている。南大門・中門・金堂・講堂・東塔・西塔だ。M教授は塔が建っていたであろう付近を指さして「ここ掘りたいなーと言う」ここの山門が珍しい。4本の柱で建っている。ここを後にして和多都美神社に向う。沖の方から鳥居が5つ並んでいる。干潮時には沖の鳥居まで歩いていけると言う。そしてここには3本足の鳥居がある。日本にも3本足の鳥居は京都太秦の蚕ノ社の木嶋神社と墨田区の三峰神社が有名。旧暦の8月1日に祭りがあり、相撲の奉納が行われ、海ではフナズロウが行われる。ズロウは競争のことで手漕ぎボートで競争するのだそうだ。長崎のペーロンに似ている。
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国分寺
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朝鮮通信使の碑 ここが接遇の場所として使われた 朝鮮通信使は1607年から
1811年まで続いた
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山門 柱が4本あるのが特徴
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龍の柱飾り
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和多都美神社 沖に鳥居が建つ
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和多都美神社 三本柱の鳥居 天地人を表し、三角形の上部より天の力を取り入れる。 左端は説明してくれたバスガイド

壱岐島の最後の訪問地は壱岐神社・壱岐護国神社である。この神社の創建は新しく創建は昭和19年である。日本各地にある護国神社とおもむきが違うのは太平洋戦争で国威発揚のための目的ではない。昭和3年から元寇と戦った少弐資時を祀る為の事業を進めた。資時は文永の役の時に12歳で初陣、公安の役で壱岐島を占領する蒙古東路軍と戦うが壱岐島前の海上で戦死 享年19歳 現地ではショウニイ様と呼ばれている。御祭神は国難事変に際して深き御神威を表したまひ、平時においては国家の平和を護らせたまう神々である。この後私たちは壱岐芦辺港から対馬厳原港へジェットホイルで向かった。約1時間5分の船旅である。
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壱岐神社・壱岐護国神社
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壱岐神社
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壱岐神社 拝殿
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壱岐神社 全景
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少弐資時の像
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厄除でなく厄祓いになっている

曽良の墓に行く前に掛木(かけぎ)古墳に寄った。長崎県の古墳の約60%を占める壱岐には古墳時代の5〜7世紀前半にかけて多くの古墳が築造された。江戸時代の壱岐国風土記には338基と記載されている。現在のところ260基以上の古墳が確認されている。円墳が多く、前方後円墳は対馬塚古墳と双六古墳で、双六古墳は91mあり、九州で5番目の大きさである。前方部が高さ5m、後円部は高さ10、5m横穴式石室である。掛木古墳は中に入れる。但し8人位までで私たちは交代で中に入った。羨道・前室・中室・玄室の三室構造両袖式の横穴式石室。玄室にはくりぬき式家型石棺とその蓋が残っていて実際に触れるが出来る。前室・中室・玄室の構造はピラミッドと同じだ。中室が祈りを捧げる場所だ。円墳は宮崎県西都原や韓国慶州のものと似たところがある。この掛木古墳のそばに壱岐風土記の丘・古墳館があり、入場料は100円だ。壱岐の鬼伝説 昔の人たちは大きな岩で組まれた石室の上に土を盛って造った古墳を「人間の手によるものでなくきっと鬼が造った棲家に違いないと考え古墳を「鬼の窟・石窟・鬼屋」などと呼んでました。壱岐には5万匹の鬼が棲んでおり、豊後の国から派遣された百合若大臣(ゆりわかだいじん)という若武者が全て退治したと伝えられています。
 築造された古墳の中には、捕鯨の様子を線刻画で描いた鬼屋窪古墳や大米古墳があります。
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掛木古墳全景
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入り口で順番を待つメンバー
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入り口部分
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玄室に横たわる石棺 左手に蓋があった。
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壱岐風土記の丘古墳館
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古墳の分布 島の中央に集まっている

ビューホテル壱岐に着くまでの間、バスガイドさんからホテルの裏側にある春一番の塔がある事を教えられた。朝散歩がてらに登ってみる。安政6年(1859)本居浦の漁民たちが五島沖で南風(春一番)に遭い、多くの人命が失われた。春一番と言う言葉はこの遭難事件に由来すると言われている。2日目もバスで観光 最初は月讀(つきよみ)神社である。日本書紀によれば、顕崇天皇3年(487)阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が命により任那に遣いにでた時、我が祖高皇産霊(
たかみむすび)は天地を創られた功がある。民地をもって奉れ、我は月神なり。そのようにすれば、慶福が得られるだろう」との月神の宣託があり、その内容を天皇に上奏、朝廷は山城国葛野郡の歌荒す田(うたあらすだ)を奉り、壱岐の県主の祖・押見宿禰(おしみのすくね)が、壱岐より月神の分霊をおこなう。これが京都松尾大社の摂社月讀神社で壱岐の月讀神社が元宮です。
次に曽良の墓に参る。曽良は芭蕉の奥の細道に随行したことで知られているが、それが分かったのは昭和18年であった。62歳で巡検使に任命され、壱岐に行く。壱岐の勝本で病に倒れ客死。春にわれ 乞食やめても 筑紫かな
曽良に関しては司馬遼太郎の「街道を行く13」に詳しく出ている。
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春一番の塔
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ビューホテル壱岐
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月讀神社
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曽良の墓

このあとビューホテル壱岐に行く予定だったが時間が早かったので玄海酒蔵とうに屋のあまごころ壱場に寄る事になった。「麦焼酎発祥の地」と言われる壱岐焼酎の製法が独特で、島外にある麦焼酎と一線を画す理由は、当時の時代背景にある。戦国時代から江戸にかけ、米に対する課税は非常に厳しかった。そこで島の人々は課税の厳しく無い麦を主原料に、米麹を使い、中国から伝わった蒸留方法を生かして、壱岐独特の麦焼酎をうみだしたのだ。壱岐麦焼酎の原料配分は大麦三分のニ、米麹三分の一。これは江戸時代からの伝統で島内にある7つの蔵元の全てが厳格に守り通している。一支国博物館が出来た時に作られた「鶴亀触」現地の名前にめでたいの鯛を付けた「鶴亀触鯛」を買った。島外では売られていない。
玄海酒蔵では試飲もしてくれサービスも良かった。次はあまごころ壱場に寄る。以前壱岐に海女がいるのを聞いた事がある。日本海側では舳倉島、丹後半島袖志、そして壱岐か、今乱獲を防ぐため、ウェットスーツでなくレオタードのような服装で
潜ると言う。
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壱岐麦焼酎の説明
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焼酎のタンク 9000リットル
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醤油の甕で熟成又はウィスキーの樽で熟成
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試飲 度数の低い物から 最高は松永安左衛門(電力の鬼)の43度

次に向かったのは遣新羅使雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)の墓だ。バスの中でM教授の解説があり、どんな墓なのか期待して行ったが、石がぽつんとあっただけで残念だった。壱岐の岩田野という場所の一番高いところに葬られたというだけの伝承だけがある。雪連宅満は天平9年(737)多数の死者を出した痘瘡(天然痘)が死因でないかと言われている。万葉集より、「壱岐島に至りて雪連宅満が忽ちに鬼病に遭いて死去せし時に作る歌一首」
天皇の 遠の朝廷と 韓国に 渡る我が背は 家人の 斎ひ待たねか 正身かも 過ちしけむ 秋さらば 帰りまさむと たらちねの 母に申して 時も過ぎ 月も
経ぬれば 今日か来む 明日かも来むと 家人は 待ち恋ふらむに 遠の国 いまだも着かず 大和をも 遠く離りて 岩が根の 荒き島根に 宿りする君
反歌2首
岩田野に 宿りする君 家人の いづらと我を 問はばいかに言はむ
世の中は 常かくのみと 別れぬる 君にやもとな 我が恋ひ行かむ
このあと岳の辻展望台(標高212、8m壱岐で最も高い)と狼煙台を巡る
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雪連宅満の墓と思われるところ
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岩田野の一番高いところに墓の案内があった
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岳の辻(たけのつじ)展望台
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狼煙台 昔オオカミの糞がのろしに良いとされた?
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一支国博物館でお土産を沢山買ったが特に凧が気に入った。この博物館を後にして原(はる)の辻遺跡にいく。ここではボランティアのガイドさんがいて色々説明して下さった。まずここの遺跡は静岡県の登呂遺跡、佐賀県吉野ヶ里遺跡、そして壱岐の原の辻遺跡が国の特別遺跡の指定を受けている。魏志倭人伝より「対馬国を出て、又南に海を渡ると一支国に着く、海の名はかん海という。林が多く、少し田はあるが、田を耕しても、食料が足りないのでやはり南や北へ行き、交易をしている。」今遺跡は調査がかなり進んでいろいろな事がわかって来た。23の建物があって17棟が復元されている。3棟は燃えた事がわかっている。この竪穴式住居は交易で来た人が泊まったところですと、高倉 木の壁は食料庫であり、土の壁は交易品を収納する倉庫であった。この交易品の中に猫があった。ネズミの害を防ぐためである。(ツシマヤマネコと違う)原の辻遺跡の大きさは東西350m南北750mの平野で後楽園ドーム5個分の広さと言う。これは長崎県で2番目のひろさだ。集落の周囲には環濠が幅2m〜3,6m深さ0,3〜1,4mで張り巡らされていた。
向こうにある物見櫓は低い場所にありますが、高いところにあると海から見え、攻撃の対象となるので低いのですと、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に倭と百済で戦って破れた事が原因で怯えていたのであろう。ガイドはまた男と女の仕事の分業が弥生のころから始まったとも言う。女は家で火を守っていたのであろうと。
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原の辻遺跡 全景
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竪穴式住居 入り口から階段状になり50cm位低いところに下りる
交易者の泊まったところ
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高倉 これは食料庫 板壁だ。
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高倉 これは交易品の倉庫 土の壁だ
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物見櫓 相手にわからないように低い櫓だ。

次に一支国博物館に行った。この博物館は壱岐市立である。芦辺町鶴亀触515番地の1に建てられている。鶴亀触であるが触れは村よりもう一つ小さな単位の集落を触れと言った。江戸時代「お触書き」という高札が建てられたのをご存知だろうが、触れは今では壱岐・対馬にしか残っていない言い方である。この博物館は黒川紀章氏の設計である。2010年に開館するが氏は博物館の開館を待たずに亡くなっている。博物館は「魏志倭人伝」の当時の風俗を再現している。又一支国の時代と現代、古墳ゾーン等あり興味が尽きない。博物館のエントランスからすぐの円形窓のカーテンを左右に引くと素晴らしい景色が広がる。原の辻遺跡が眼下に飛び込んでくる。この景色は見飽きない。
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黒川紀章氏設計の一支国博物館
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朝鮮との交流に用いられた船の模型
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弥生式住居や稲作の様子
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土器類 須恵器がここにもあった。

標記の件、泉北教養講座の一参加者として8月1日から3日まで行ってきました。早朝新幹線で博多まで行き、そこから高速船(ジェットホイル)に乗り、壱岐芦辺港に11時35分ほぼ定刻に着きました。ジェットホイルの船名はヴィーナスで1時間5分で博多と壱岐芦辺港をつないでいる。海上を約80キロのスピードで走る。この日は揺れも少なく、快適な船旅でした。壱岐到着後、はらぼけ地蔵、一支国博物館と見て回りました。はらぼけは、腹がほげる(穴があく)という意味で海の中にあるお地蔵さんは胸の辺りがほげていました。私たちが行った時は満潮で胴体まで海水に使っていました。「いつ、誰が、何のために祀っているのかはっきりしません。遭難した海女さんの弔いとも、クジラの慰霊供養とも言われています。
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博多駅
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ジェットホイル
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芦辺港
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はらぼけ地蔵
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はらぼけ地蔵