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尾瀬御池ロッジは快適だった。おでんの冷凍食品があり、これを生ビールのあてにして一人飲む。疲れていたのかすぐに酔いが回って早々に部屋に戻る。布団を敷いて一眠りする。9時30分に目が覚めたので風呂に行き、今日つった足の太ももや脛の部分をしっかり揉む。かなり痛む。明日はどうなるのやら、ロキソニンの湿布薬を4箇所に貼る。

17日5時起床、5時45分ロッジを出る。足は少し軽くなっている。6時40分広沢田代通過天気が良くなる。8時15分熊沢田代広い高層湿原だ。2人のおばちゃんと追いつおかれつして楽しく歩く。晴れていて気持ちが良い。おばちゃんが私のリュックがゼロポイントと知って、古くから山登りをしているのか聞いてくる。高校のとき山岳部だったことを言うと、なるほどと言った顔をした。ついでリュックの上蓋を止めるのが一本のテープに触れ、「一本締め」と言う。それで今はいろいろなポケットがついたのが流行っているが昔はあまり付属がなかったし、私は岩登りもしていたので不要な突起が岩登りの時に邪魔になるからシンプルなものがベストと思っている。と言うとすごく納得してくれた。それからおばちゃんたちは「一本締め」「一本締め」と歌うように歩いて行った。この田代を過ぎてすぐに雪渓に入る。今回アイゼンを持ってこなかったのがちょっと失敗だった。アイゼン着用した登山者にどんどん追い抜かれる。ここで時間をロスしたのが痛かった。俎嵓についたのは11時ここで大休止、天気は曇りになった。燧ヶ岳頂上へは小型リュックに変えて往復した。頂上(2358m) は11時45分到着、再び俎嵓に着くと同時に大粒の雨が降り出した。カップヌードルと玄米ブランを食べる。食べている間に雨具を着用する。12時35分俎嵓を出発,少しして長英新道との分岐を沼尻平に向かって降りる。かなり急だ。多くの人は長英新道に降りたのだろう。雨はかなりキツく雨具のフードの下の帽子もびしょ濡れになる。登ってくる登山者には3名しか会わなかった。

IMG_1179尾瀬御池ロッジ 村営の山小屋だ

IMG_1181御池登山口

IMG_1196広沢田代

IMG_1205偽燧ヶ岳 または前燧ヶ岳

IMG_1207熊沢田代を行く登山者

IMG_1211熊沢田代

IMG_1221雪渓 ここで多数の人に追い抜かれる

IMG_1225兎の糞




16日は朝より小雨 5時に起床してすぐ出発、バス停の会津駒ヶ岳登山口に来ると新宿からの夜行バスが止まって乗客を下ろしていた。もう20年前のことだが私もこのバスに乗って尾瀬に来た。6時会津駒ヶ岳登山口,車で来ている人はここまでこれる。駐車台数は18台ここで雨が大降りになった。雨具を着用。7時25分小休止朝食、頂上まで4,1kmの標識。8時過ぎに雨が止む、9時レインコートを脱ぐ、10時山頂まで2,7kmの標識カッコウの鳴き声を時々聞く。足が時々つるのでゆっくり歩く。10時15分会津駒ヶ岳が見える。汗びっしょりである。12時駒の小屋到着足がつるのでここのベンチにリュックを下ろし、山頂に向かう。12時40分会津駒ヶ岳山頂2132,4m記念撮影してすぐに戻る。足がつったため予定より1時間オーバーだ。駒の小屋すぐの池ではモリアオガエルの声が仕切りにしていた。こんな寒いところでも生息するのだ。13時10分駒の小屋を後にしてひたすら降りる。バスの時間が15時18分だから急ぎ足でどうにか間に合う。14時10分水場昼食にする。この分ではバスの時間に間に合いそうもない。足がつったのが誤算だった。15時40分登山口バス停着、登山口のすぎのやでタクシーを聞くがこの檜枝岐村にはタクシー会社がないという。ふもとから頼むしかないという。とりあえず私はますや旅館まで歩くことにした。幸いなことにおかみさんがいて事情を説明、尾瀬御池へ行く車があったら便乗したいことを言うと、降りて行く車は多いけれど御池へ行く車は少ないと言う。とりあえずちょっと待っててと言い、15分ほどますや旅館のベンチに腰掛けていると、尾瀬御池ロッジから迎えに来てくれると言う。本当に助かった。でも最終バスが15時18分と言うのは早すぎると思った。ここはこう言う時間で成り立っているのであろう。それから少しして御池ロッジの方が迎えにきてれて17時までに御池ロッジについた。御池ロッジは以前は夕食も出ていたが今は朝食だけになっている。コロナで夕食の提供をやめたそうだ。その代わり、レンジでチンしてできるご飯や惣菜が置いてある。また生ビールもあったので風呂上がりの後中ジョッキを飲んだ。

P7161509会津駒ヶ岳登山口

P7161513山頂まで4,1kmの標識

P7161516山頂まで2,1kmの標識足がつる

P7161535駒の小屋が見える

P7161544駒の小屋からの雪渓

P7161546雪渓が続く

P7161550石楠花が咲いていた

P7161558会津駒ヶ岳頂上で記念撮影


檜枝岐村役場に行こうとすると小学生らしい女の子が二人いたので学年を聞くと5年生だった。役場でテレビで活気がある村だと紹介されていたので村勢要覧のようなものあったらいただけないか聞いた。すると村勢要覧ではないが統計資料と暮らしのデータ資料編というものをもらえた。それによると檜枝岐村のキャッチフレーズは「尾瀬のある郷(檜枝岐)」となっており、村花は水芭蕉、村木は檜、村の鳥はコマドリとなっていた。そして村長や議長の月額報酬も載っていた。ここの主要産業は観光業で村民は旅館、民宿、キャンプ場、山小屋を経営している。村の総面積の98%が山林で峡谷型山村である。平均気温9℃平均積雪が2mの豪雪地帯である。小学校が1校で生徒数27名 中学校が1校で生徒数11名総人口は平成12年に757人、平成27年に615人うち65歳以上の人口は213人となっており、総人口に占める割合は34,6%である。最後に役場の方に過疎にもならず、子供たちも多いのか聞くと、都会に出て行った人たちがある程度立ったら帰ってくるという。地元は観光業で飯が食べられるからと言っていた。やはり産業がしっかりあるというのが重要だ。役場を出て、街道沿いを歩くとここはお墓が道路の脇にかなりある。気になって大きな墓の前に行くと大火があって、それぞれ谷の奥にあった墓を移動したとのことであった。また古い民家は土壁の家がなく、板張りの家ばかりなのは良質の土が得られないので板張りの家が多いのだと書かれた看板があった。村の中を全て歩いたわけでないが、国道沿いにはコンビニエンスストアーが一軒もなかった。それらしきお店はJA会津よつば檜枝岐支店だろうか。小学校のグランドでは子供たち六人が野球に興じていた。かぎや旅館は蕎麦処と日本秘境の湯を守る会会員の宿だった。大菩薩嶺に登った時に泊まった旅館雲峰荘も同じく秘境の湯を守る会会員だった。露天風呂があるのかもしれない。ますや旅館に戻る。お風呂に行く手前の部屋に額が掲げられていてこの旅館の創業者は以前村長だったらしい。おかみさんに聞くと先先代の人で村長をしていたという。さっきバスの運転手に「ますや旅館前でおろしてくれ」というとはいとすぐ返事が返ってきたのも頷ける。

P7151470日本の秘湯を守る会のかぎや旅館

P7151474板倉集落 土壁がない

P7151475六地蔵

P7151476お墓が街道沿いにある

左]P7151493グランドで野球をする子供たち

P7151498ますや旅館の夕食 三歳のオンパレードとイワナビールがうまい

P7151499おかみさんと記念撮影




当初燧ヶ岳と至仏山登山を予定していたが5月下旬ごろから山小屋の予約を入れてみたがどこも満席で空きがなかった。7月の15日から18日までの3連休プラス1日でかなりの登山客が早くから予定していたのだろう。会津駒ヶ岳は老神温泉に泊まった時にこの温泉から北に駒ヶ岳という日本100名山の一つがあるのを知った。この登り口に行くルートを見ていると面白い行き方があるのがわかった。浅草あるいは北千住から東武鉄道のリバティー会津という特急列車に乗って会津高原尾瀬口まで行きそこからバスで檜枝岐村(ひのえまた)に入るルートである。堺を6時過ぎに出て福島県檜枝岐村につくのが午後3時20分でおよそ1日仕事だ。7月のいつだったかわからないが檜枝岐村の紹介をテレビで見た。ここは若年人口が減少し限界集落になりそうになった時期もあったが、子供たちも多く、小学校も中学校も立派に授業ができている。旅館業や民宿が多く、観光で成り立っているのだ。

15日私は品川で新幹線を下車し、北千住までJRの快速で行き、そこから東武鉄道に乗った。この北千住駅は地下ホームでそれも特急列車はホームの前寄りが乗車位置になっている。これは乗り継ぎ時間が短いと乗り損ないの恐れがあるホームだ。ホームではそこのところかなり頻繁にアナウンスしている。リバティ−119号会津田島行きは11時12分出発だった。特急座席指定券が1850円運賃が2480円である。6両連結で4号車から6号車までは下今市で切り離され日光に向かう。12時30分下今市着ここで昼食にする。昨日買ったおにぎりを食べた。13時05分鬼怒川温泉老若問わず二人連れが多い。新藤原駅から野岩鉄道(やがん)に入る。列車は東武鉄道のものだ。列車は霧の中を進む。駅名も温泉または湯本というのが多い。温泉列車だ。湯西川温泉駅はトンネルの中の駅だった。13時51分予定通り会津高原尾瀬口駅に到着、標高722,5m

バスの切符は駅の売店で買った。気温19℃少し肌寒い。会津バスは14時10分に出発し、15時20分ますや旅館前についた。ここでリュックを下ろし、縁切りの神様、歌舞伎の展示場へ行った。縁切りの場所は沼田街道より少し奥にあり、そのそばに歌舞伎の展示場があった。縁切りはハサミを供えてあり、数百丁のハサミが置かれていた。また鎌などもおかれ、絵馬は半分に割ったものが吊り下げられていた。歌舞伎の展示は江戸時代から盛んに歌舞伎が行われていたらしく、星さんという役者が一座を取り仕切っていた。他に竹本姓をいただいた方もおられた。舞台は改装中でまた柿落としが行われるのだろう。

P7151440行先案内板 北千住駅

P7151449リバティー会津119号

P7151453会津高原尾瀬駅 標高722、5m

P7151459ますや旅館

P7151460橋場のばんば

P7151462悪縁たちきり 数百丁のハサミがあった

P7151463歌舞伎の出し物

P7151466竹本姓をいただいた浄瑠璃がたり







東北の山々にはアイヌ語が元になっているものも多い。私が洞窟調査に北上山地を歩いた時もウレラ山というのがあったがこれもアイヌ語が語源だ。早池峰山もpaha(東)ya(陸)chinika(脚)というのに日本名が被せられたものと思われる。それとこの山の植物相は固有のものがかなり多く、ハヤチネとナンブの名前がつくものも多い。ハヤチネウスユキソウ、ナンブトラノオ、ナンブイヌナズナ、ヒメコザクラ、ナンブトウウチソウなどである。私は八合目付近でイワヒバリの声を喧しくきいた。今回は時間的に余裕があったので花の写真を多くとった。また頂上までの里程を表す合目は1、2、3、5、8がわかったが後は見つけられなかった。登山者からハヤチネウスユキソウの咲いているところを教えてもらったのもありがたかった。ショウジョウバカマは花の時期が長いが、6月まで咲いているのも珍しい。ミヤマシオガマは

ピンク色の筒型の2cmぐらい花がついている。利尻島にはベニシオガマというよく似たシオガマがあるが私は見つけられなかった。8合目付近から見下ろす景色は花崗岩と石灰岩地帯特有の岩がニョッキと出ている感じで蛇紋岩も見られる。頂上にある小屋は避難小屋で宿泊のための小屋でない。登山にかかる時間が6時間程度だからよっぽど天気の急変がなければ使用せずに済む。下山した後車のエンジンがかからなかったことは4で書いたが、その後道の駅で遅い昼食中もエンジンはかけっぱなしにしておいた。またかからなかったら予定の時間に帰れないからだ。

ところで帰り盛岡駅のみどりの窓口で乗車券を買うのに10分も待たされた。人数は4名ほど先客がいるのだが、窓口の駅員がお客との相談に乗っている。この時間が長いし、乗車のために記入する購入用紙に書いてなくて窓口に来る。関西ではそのような風景は見られない。ほとんどの人が購入用紙に記入して買いに来るから所要時間が少ない。私は5時6分の東北新幹線に乗る予定で4時50分に並んだ。自分の順番が来たのは5時3分駅員に無理なら次の列車にするというと大丈夫すぐ作りますという。切符を発行してもらって改札口を通ると発車のベルがなり、閉まるドアにお気をつけくださいのアナウンスが流れている。走って列車に飛び乗ったが、乗車券を取り忘れた。これは車内で車掌に事情を説明し、堺まで無事帰れる手続きをしてもらったが、とにかく窓口での対応が遅い。

IMG_1110山裾の風景

IMG_1111ミヤマシオガマ

IMG_1112チングルマ

IMG_1122ヒメヤシャブシ

IMG_1129コバイケソウ

IMG_1135ショウジョウバカマ

IMG_1149ハヤチネウスユキソウ

IMG_1107一合目

IMG_1116二合目

IMG_11523合目

IMG_11258合目

IMG_1127避難小屋と雪渓

IMG_1163お土産 ワインとリンゴジュース・南部煎餅など重たかった


市内見物を終えてイオンモールの近くにあるニコニコレンタカーへ車を借りに行った。借りた車はマツダのデミオで私はこの車に乗るのは初めてだった。今までトヨタ、日産、ホンダの車がほとんどだったのでうまく運転できるか少し心配だった。それとニコニコレンタカーの場合ナビゲーションが後付けが多い。運転席すぐのダッシュボードにちょっこっと取り付けたようなものがあったが、今回もまたこの手のナビだった。担当者にこれはあまり良くないもっと固定して欲しいというとガムテープで固定した。ひとまずホテルまで帰って駐車場に入れた。

6月11日朝5時12分起床 6 時15分ホテルを出る。カーナビの案内に従って走る。花巻や遠野方面の案内板がいくつかあった。盛岡から太平洋の方へ少し南下している。途中岳駐車場には車がかなり駐車していた。少し先の河原の坊で車を止めて小田越えまで歩く。6月12日から交通規制が入り、8月7日までの土日祝日は岳駐車場までしか来れない。岳駐車場からシャトルバスを利用する。これが1000円かかる。小田越えまで歩いてもいいが。時間がもったいないと思う登山者も多いだろう。また夏季には花巻から直行バスが小田越えまで出ており、1800円だ。しかし運行日には注意がいる。

11日は朝からよく晴れていて日差しが暑い。小田越えからの登山道は樹林に覆われ、気持ちの良い登山ができる。1時間歩いた後は花崗岩のゴツゴツした岩が所々に出てくる。9時25分に小休止、途中に簡易トイレブースがあったほか小田越えのところに移動式トイレが6台あって極力山を汚さないようにとの取り組みが徹底している。岩手県自然保護課が率先して呼びかけている。10時40分梯子を登り切ったところで小休止、頂上までもう少しだ。気温16℃少し肌寒いが気持ちいい。11時10分早池峰山頂上(1917m)到着。約3時間半の登はんだった。頂上には明日から登山規制があるためか70名ぐらいの人がいた。途中ヒメコザクラという固有種を見ながら降りる。駐車場には2時間ほどでついた。ここからデミオに乗ってすぐに帰るはずだったが、なかなかエンジンがかからない。15分ぐらい回し方を変えてみたり、車を揺すってみたりしたが全くかからなかった。ニコニコレンタカーに連絡するも携帯が圏外を示して拉致が開かない。幸い近くに西北自動車バスの運転手が登山客の下山待ちをしていたので色々やってもらう。キーボックスをカチッとはめるとエンジンがかかった。本当にありがたい。約30分時間をロスしてしまった。河原の坊にはネイチャーセンターのようなものがある。私はここで自販機を探したがなかった。ネイチャーセンターの担当者に聞くと電気が来ていないとのことだった。でも部屋の中は電気がついている。これはauのアンテナが設置されてその電気が自家発電で行われており、場所を提供する代わりに自家発電の電気を分けてもらっているそうだ。ただ自販機を賄えるほどの電気ではないとのことだった。

IMG_1091レンタカーのデミオ

IMG_1095岩手県自然保護課の山の小屋

IMG_1097小田越えの常設トイレ

IMG_1104携帯トイレブース

IMG_1117五合目

IMG_1124梯子ここをこえれば頂上はすぐ

IMG_1131頂上直下の雪渓

IMG_1141頂上で記念撮影



盛岡歴史文化館を後にして城内のお堀に出ると「ホタルの里」という看板が出ていて毎年6月下旬頃から約一ヶ月ホタルが鑑賞できますと書かれていた。堺より約一ヶ月遅い。毘沙門橋を渡ろうとすると川の両側に明日のチャグチャグうまっこの幟が数十本建てられていた。もりおか啄木・賢治青春館はすぐにあった。二人とも明治時代に生まれ、盛岡中学校に学んだ。16歳の時に文学で身を立てることを決意、中学校時代に好きになった女性と19歳で結婚している。20歳の時に代用教員となる。代用教員や地方新聞記者として働き、23歳の時の東京朝日新聞に更生係として採用され働く。この間創作活動に励み23歳の時に処女歌集「一握の砂」を刊行、明治45年肺結核にて死亡。享年27歳。賢治は明治29年に生まれる。大正2年舎館排斥運動で寮を追われる。大正9年盛岡高等農林卒業・研究生となる。大正10年花巻に戻り、稗貫農学校の教師となる。大正13年「注文の多い料理店」出版。大正15年花巻農学校を退職し、濃厚自炊の生活を始める。昭和3年急性肺炎のため自宅療養。昭和6年「雨ニモマケズ」発表。昭和7年「グスコーブドリの伝記」発表 昭和8年37歳で逝去。私にとって石川啄木は中学校の時にはじめて国語の教科書に出てきた。「東海の小島の磯しらすなに我泣き濡れてカニとたわむる」や「戯れに母を背負いてその余り軽きに泣きて三歩歩まず」「故郷の山に向いてゆうことなし故郷の山はありがたきかな」など今でも覚えている。宮澤賢治で面白かったのは銀河鉄道の夜」だ。ジョバンニやカンパネルラと一緒に旅をしている感じだ。最後は現実に引き戻される。ここを出てすぐの岩手銀行赤煉瓦館に行く。2階部分に銀行の一階を見渡せるテラスがぐるっと

回され、銀行員の仕事が全て見渡せる。何か映画のシーンにいる雰囲気だ。一階でバザーを明日から行うのでそれぞれ手作りの作品を並べていた。私はその中でちょっと変わったネクタイピンを見つけたのでそれを買った。新渡戸稲造が岩手県出身というのも像を見て初めて知った。ここからホテルに帰ろうと思ったのが与の字橋を渡って紺屋町番屋の方へ行ってしまった。さらに上の橋まで行って間違いに気づき、再び新渡戸稲造のところまで引き返し、道を高校生ぐらいの男の子に聞くと、なんとホテルニューカリーナまで案内してくれるという。高校生は大谷翔平の花巻東高校の生徒だった。

IMG_1068岩手銀行赤煉瓦館

IMG_1071岩手銀行赤煉瓦館内部

IMG_1076石川啄木胸像

IMG_1077宮澤賢治胸像

IMG_1079紺屋町番屋

IMG_1080町名由来の案内板

IMG_1082今夜長は染物屋が多かった

IMG_1086新渡戸稲造の像


まずはホテルにリュックを置いて盛岡市内見物に出ることにした。盛岡の岩手県交通のバスは近距離の市内や循環バスであれば120円で行ける。ホテルニューカリーナはバスで5分ほどのところだった。幸いなことに盛岡城のすぐ近くで歩いていけた。盛岡城址公園(岩手公園)はお城は無い。城址公園の北東に盛岡歴史文化館があった。そこに入場する。一階は無料で2階は南部藩の展示をしていてこの入場料が300円だった。吹き抜けに「チャグチャグうまっこ」の展示があり、年一回6月11日にこのお祭りが開催される。そこで私は納得した。安い宿が取れなかったのはこの祭りのためである。一階では簡単な岩手の歴史紹介とお土産コーナーがバカに大きくスペースを割いていた。私はそこで南部煎餅を買った。今南部煎餅は美味しくなっている。私が55年以上も前に来た時はものすごく素朴な味だった。2階の南部藩の歴史を見る。南部家は甲斐源氏の流れを組み、鎌倉、室町時代に勢力を伸ばした。奥州の南部家は三戸南部家が元であり、三戸(青森)が大きく北にあること戦国時代に豊臣秀吉の後ろ盾もあり、盛岡に移動し盛岡藩として築城する。展示では南部家のたしなみのタイトルで武道より、文に重きを置いた生活をしていた。1章 伝統の和歌と受け継がれる敷島の道 南部政行、南部利視、南部利雄、南部重信等は和歌をよく詠んだ。2章 暮れ行く年、迎える初春 南部利直や南部利謹は絵画や書をこなした。利直は書道で「君が代」を書いている。3章 描かれた画題 南部家の人は布袋、鍾馗(しょうき)大黒天など特定の画題を多く書いています。南部利謹は布袋図を南部利信は鍾馗図を描いています。4章 習いの成長 南部利敬や南部郁子は書道を得意としました。

産業の面では南部鉄といわれる良質の鉄で作った置き物や風鈴、鉄瓶などがあります。また農業の振興政策では開墾や農作業に馬を用い収量の増大を図るとともにたくましい農耕馬の生育に力を注ぎました。チャグチャグ馬っこは馬に感謝するお祭りです。

画像盛岡城址公園案内図

IMG_1050城内のほたるの里

画像南部家の家系図

IMG_1061南部藩の殖産

IMG_1066チャグチャグ馬っこ

IMG_1067チャグチャグうまっこの由来

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早池峰山は盛岡から東の方向にあり、柳田国男の遠野物語の遠野の北側にそびえる1914mの山である。遠野物語には。この早池峰山が何度も出てくる。山女や若き女性、大男、狼、鹿の話などだ。

女性の場合大抵庄屋の娘とか大金持ちの娘が突然いなくなり、猟師が山に分け入ってその娘たちをみたというのが多い。深田久弥の百名山の中にも登場するが、大昔に女神が北上高地を三人の娘を連れて旅をしていた時に村の社に止まった。母の神は娘たちに良い夢を見た者に良い山を与えようと約束して眠った。夜半に天から霊華が降ってきて姉の胸に留まった。すると末の娘が目覚めこれを見て即座に自分の胸に置いた。それで末の娘がこの早池峰を得、姉達は六角牛山(ろっこうしやま)と石神山を得た。その後、女性がこの早池峰山に登ると姉たちの恨みを買うと言われ、長い間女人は登らなかったらしい。早池峰山は6月12日から8月7日まで車両の通行規制が行われている。登山口付近の交通混雑を解消するためと、高山植物の保護のためにである。この期間中は岳駐車場から小田越までシャトルバスが約30分ごとに運行されている。私は通行規制が行われる前の6月11日に登山することを決めた。大阪から盛岡までは今約5時間30分で行ける。10日昼に盛岡について市内観光をして次の日に早池峰山に登ることにしたところが10日(金)の宿がなかなか取れない。ビジネスホテルや宿泊だけのホテルがほとんど満席なのだ。少し上のクラスの宴会場があったり、ブライダルサロンがあるホテルしか空いていなかった。そこでホテルニューカリーナに泊まることにした。12時30分に盛岡についた後すぐに「わんこそば」を食べることにした。駅前に東屋(あずまや)という明治四十年創業の老舗があり、そこに入った。わんこそばは何杯食べても3150円だったが、年を考えるとそう食べられるものでない。もし私が12歳ぐらい若かったら挑戦していただろう。丼ものを頼むとわんこそばがついてくると言うので、天丼1000円を頼んだ。結構ボリュームがあり、わんこそばも美味しかった。帰りぎわにわんこそばの2食入りとわんこそばの何杯食べましたと言う手形を買って店を出た。

IMG_1030新幹線から富士山を見る

IMG_1032盛岡駅

IMG_1036わんこそばの老舗 東家

IMG_1039天丼とわんこそば

IMG_1040啄木の歌碑

IMG_1041ホテルニューカリーナ





松浦武四郎は1818年に生まれました。武四郎が13才の1830年(文政 13)にお蔭参りと言って伊勢神宮をお詣りに来たひとが1年間に500万人を超えました。日本の人口が3000万人の時で伊勢街道は人で溢れかえっていました。そして武四郎が16才の時こっそり家を出て江戸に向かいました。しかし一ヶ月後に連れ戻されました。しかし旅の楽しさや旅先の風景を思い出して旅への思いはますます強くなっていきました。とうとう17才の時に両親に許しを得て全国を回る旅に出ます。旅費は東京で覚えたハンコ作り(篆刻)でお金を稼ぎながらの旅でした。この度は長崎でひとまず終えることになります。武四郎は石を彷徨う大病に罹ったからです。長崎で世界の情勢を知りました。そこでロシアが蝦夷地を狙っているらしいということをしりました。28才で蝦夷地に渡るまで琉球と蝦夷地を除いて日本各地を廻りました。そして28才の時の最初の蝦夷地探検をし、その後合計6回の探検をしました。アイヌの人たちの暮らしぶりが生き生きと書かれています。時は明治になり政府は蝦夷地の開拓に乗り出しました。武四郎も役人に任命され蝦夷地の新しい呼び方を考えることになりました。7つ候補が上がりそのなかで「北加伊道」という名前が選ばれました。カイはアイヌの言葉でこの国に生まれたものという意味です。武四郎の思いがこめられています。

武四郎以前に蝦夷地を調査した人がいることも忘れてはならない。1792(寛政4年)ロシア使節ラクスマン来訪以降江戸幕府はロシア対策に力を入れ、蝦夷地踏査を実施していた。そのメンバーの中に、宇治山田出身の村上島之允(むらかみしまのじょう)がいた。健脚と地図作成能力が評価され、松平定信に抜擢された人物である。村上は寛政10年(1798)12年と蝦夷地に渡り、文化4年(1807)まで同地で生活を続けた。殖産興業の傍ら、蝦夷地の様子を記録し、当時のアイヌ民族の様子を描いた比類なき画集「蝦夷島奇観」がまとめられた。これらの絵画は武四郎の「蝦夷漫画」にも引用されている。武四郎は村上の著作をよく勉強していたことがわかる。

IMG_0943旅の資金に道中でハンコを作る

IMG_0945大台ヶ原に3回登山、富士山に1回登っている

IMG_0947アイヌの人を描く

IMG_0950著作集生涯に151冊

IMG_0956アイヌの人たちの踊り

IMG_0957和歌を読む アイヌの人も同じ人間

IMG_095928,29才の時は個人として3〜6回は幕府役人として探検

IMG_0969松浦武四郎の生家