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本居宣長記念館を出たのは12時30分を少し回ったところだった。昼飯に松坂牛を食べて帰ろうと思った。数軒調べていた中で牛銀本店というのがあったので行ってみると20人近くの人が並んで順番待ちをしていた。松坂牛が入ったカレーがなんと2000円を超している。私は次に松浦武四郎記念館に行かねばならないので時間がない。そこで松坂の土産を観光交流センターで買って昼食は松坂牛でなくても良いと考えた。交流センターで松坂のお酒「鉾杉」極上大吟醸を買う。すると店員が「お昼まだでしょう」と言う。「はい」と答えると「駅前の観光案内所の2階でも松坂牛の入ったカレーがある」と言う。それから名刺を取り出してこれ店員さんに渡したらコーヒーサービスしてくれるから」と言う。えらいサービスしてくれる。私は駅に向かって歩き始めてから「丸中肉店」がテイクアウトをやっているのでメンチカツ・ステーキ・コロッケを買って駅前の観光案内所の2階へ行った。カレーを注文し名刺を出してみると「アイスですかホットですかと聞いてくる」「アイスです」と言ってみた。値段は1000円である。果たして松坂牛の肉が多いのかカレーを掬ってみると、すぐ大きい塊があり、どの部分からも肉がスプーンに引っ掛かった。アイスコーヒーを飲んで本当はボヤーとしたいところだが、時間がない。松坂から伊勢中川駅まで乗って、ここからバス利用だった。ところがである。土曜日・日曜日は松浦武四郎記念館まで行くバスは出ていないのである。私は平日のダイヤしか見てなかったのだろうか。駅前のタクシーの運転手に聞くとずっと前から土日にバスは走っていないと言う。歩ける距離でなかったのでタクシーに乗った。

松浦武四郎記念館は畑の中にポツンとあった。今年改装されて4月27日よりオープンされていた。もともと松浦武四郎については北海道(アイヌ)や樺太・国後・択捉を探検をした人物というのはわかっていたが、今年1月に読んだ「熱源」著川越宗一の中に出てくるのでなお興味を持った。

松浦武四郎記念館では生家も見れる鑑賞券を売っていた。彼の家は伊勢街道に面していた。そして子供の頃に伊勢神宮を目指すお蔭参りの人々を見て育ったのであろう。前回紹介した本居宣長もお蔭参りを見ているし、玉勝間三にその記述がある。「あるものに、宝暦二年伊勢大神宮に、お蔭参りとて、国々の人どもおびただしくまうずるのことありし、その人数をつぎつぎにしるしたるやう、四月上旬より、京井に五畿内の人、ぬけ参宮と」いう事あり」と前置きしてその人数を4月9日より、5月29日までの50日間で362万人なり」としている。

IMG_0936牛銀本店 昼食時20人ほどが順番待ち

IMG_0879伊勢街道のさんぐうの復元標識

]IMG_1171[お蔭参りの図(本居宣長のパンフレットより)

IMG_0939松浦武四郎記念館

IMG_0941松浦武四郎




本居宣長で思い出すのは中学の時か、高校の時に習った「松坂の一夜」お伊勢参りにきた賀茂真淵に宣長が会う場面である。たった一回の出会いでその後6年間真淵が死ぬまで二人の師弟関係は続いた。真淵が67歳、宣長が34歳の時である。真淵は学問は基礎が大事と言い、まずは古代に言葉である万葉集を勉強させた。そしてわからないことがあれば手紙で質問すれば答えてあげようとまでおっしゃった。中学か高校の時の先生は一期一会がいかに大切か教えたかったのであろう。私は大した意味も覚えず通り過ごしてしまった。宣長の古事記研究には地の利というものがあったのかもしれない。伊勢神宮に祀られている天照大神がどんな存在かを知るため、日本書紀を理解した。宣長は伊勢国の冒頭で引用する「かた國のうまし国」と言う言葉は日本書紀にある。垂仁紀に伊勢神宮の成り立ちに関わる記事があり、そこで伊勢國についての描写が出てくる。天照大神を祀る地を探して菟田篠幡(うたのさきはた)に降り立った倭姫命は大和、近江、美濃を経て伊勢國にたどり着く。この時天照大神が「この神風の伊勢国は、常夜の浪の重浪帰する国なり。傍国のうまし国なり、この国に居らんと欲ふ」とおっしゃった。こうして天照大神は伊勢に祀られることになった。

賀茂真淵の指導を受けた本居宣長はわからないことがあれば真淵にいつでも質問できた。真淵は駿河にいたが当時江戸ー京都ー大坂を走る町飛脚は料金を払えばいつでも利用できたのである。しかし伊勢参りの盛んな時であったのでこれらの旅人に託して手紙をやり取りした、これがかなり無事に届けられたと言うのは驚きだ。「参宮便」などと呼ばれた。宣長はもともと学者などの系統の家に生まれた人でなかった。16才の時に江戸の叔父の店に商人として見習を始めたが一年で松坂へ返されてしまう。19才から23才まで今井田家に養子に入るも離縁され、母は宣長が生きていける道を探った結果、医者にすることを決意、宣長は23才から5年半京都で医学を学び28才で医者となった。松坂に戻った宣長は昼は医者として夜は古典研究を行ったのである。宣長が古事記伝の44冊目を書き上げたのは寛政十年(1798)で宣長69才の時であった。

宣長の言葉「詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、まなびやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかかはるまじきこと也」

IMG_0932本居宣長の居宅

IMG_0933本居宣長記念館

IMG_1170松坂の一夜 左宣長 右賀茂真淵(パンフレットより)

IMG_1167本居宣長自画像 還暦の時の自筆(パンフレットより)

IMG_1169御師の家の繁盛ぶり(パンフレットより)



歴史民俗資料館の一階は三井高利の果たした役割を彼の年齢順に解説していましたが、やはり若くしてその才が発揮され、わずか18歳で江戸の店の支配人になっています。「大日本持◯長者鑑」お金持ちの番付表には松坂の商人が多く入っています。番付表は今から200年前に作られたもので小津家、長谷川家、長井家が入っています。勧進元には三ツ井八郎右衛門となっています。それからお伊勢参りで活躍した御師のこともビデオで紹介されていました。2階は小津安二郎松坂記念館になっていました。2階へ上がる階段の壁に映画の大きなポスターが描かれている。「父ありき」「東京物語」「秋刀魚の味」などあったが私は見ていない、「浮草」を知っている程度か、京マチコというきれいな女優さんがいたのが記憶にあるが筋は忘れてしまった。それと若尾文子さんもきれいだった。小津安二郎は東京生まれであったが父の教育方針から9歳から19歳まで松坂で過ごしました。その後現神戸大学・名古屋大学を受験するも不合格、中学時代から映画にはまり、時には名古屋まで出かけるほど映画少年だった。一浪するも映画に夢中で再び不合格、仕方なく代用教員として松坂から少し離れた飯高町で1年間過ごした後東京へ戻り、松竹キネマ蒲田撮影所に撮影部助手として採用され、4年後には監督に昇進、30歳で雑誌「キネマ旬報」でベストワン監督に選ばれました。60歳で亡くなるまでに54本の名作を残しています。

11時を回ったので急いで退館し、松坂城址内にある本居宣長記念館に行く。本居宣長の屋敷は別の場所にあったのが、ここに移されて観光客が訪れやすいように配慮されている。本居宣長の業績はなんといっても古事記を誰にもわかりやすく解明したことではないだろうか、それまで古事記を解明した人物はなかったのでは、元々宣長は日本いわゆる大和は何かということに興味があり、その追求する手段として古事記に何が書いてあるかを研究した。京都で医者の修行を5年半した後、松坂で医者として独立その傍に古事記の研究や色々な書物を読破している。それと彼は地図を書くのを得意とし、この時期に自分の理想郷とする地図も書き上げている。

IMG_0919松坂木綿

IMG_0921縞帳 客に柄を選ばせた

IMG_0916長者番付 大日本持◯長者鑑

IMG_0914ビデオによる御師の紹介 本居宣長もここで働いたことがある

IMG_0927小津安二郎の画才

IMG_0928小津安二郎の作品紹介

IMG_0930小津安二郎の名画の看板


18時21分高見登山口にマイクロバスはきっちり時間通りきた。乗客は私一人だ。運転手と日吉の里マルシェまでずっと話していた。土日に来るなら前日までに東吉野村役場に電話して菟田まで来るように頼んだら良いという。100円別にいるけど、そして菟田に温泉があるからそこで風呂を浴びて帰ったら良いともいう。なるほどそういう行き方もあるのかと、榛原からは松坂まで普通電車を利用した。特急もあるが、到着時間に15分しか違いがないし、急いでるわけでもない。ただ松坂で夜遅くまで飲食店が開いているか心配だった。去年福岡で体験したことだが、コロナの緊急事態宣言が出されていた時は午後8時にもう閉店していたからだ。松坂で最初にホテルに電話して道案内を聞くと「ちょっと説明が難しい。タクシーで来るのが良い」という。そうすることにして飲食店を探すと中華料理店「味珍」という店があったのですぐそこに入って焼飯と台湾ラーメン・生ビールを注文する。結構ボリュームがあって腹いっぱいになった。その後すぐタクシーに乗る深夜料金になるわずか5分まえだ。風呂に入ってほんの数分で寝てしまった。

5月28日(土)ホテルは松坂城址のそばだった。松坂城址公園に着くまでの9時に三井高利の邸跡に到着、三井も元は質屋・酒・味噌などの商いをしていたが江戸に登り、越後屋を開業「現金掛け値なし・店前売り」の現金売りに力を入れる。その後両替商になり、幕府のお墨付きの両替商になっていった。また江戸時代の終わりには江戸に5店、京都に7店、大阪に2店、松坂に1店、店を開いてました。とある。10時に歴史民俗資料館にはいる。入館料は150円で、2階は小津安二郎松坂記念館になっている。こちらは別途200円だ。松坂城は天正12年(1584)に蒲生氏郷が滋賀県から松ヶ島城に入りそれから四五百森に築城を開始して3年後、新しい松坂城に入ります。氏郷は町や商人や寺などを城の周りに移住させ、楽市楽座を持って商業の発展を図った。また自分の出身地の近江日野や伊勢大湊からも商人を移住させた。これが松坂商人の始まりとなりました。日本三大商人は近江商人・大阪商人と松坂商人です。

IMG_0879伊勢参りの石の標識

IMG_0881旅館鯛屋 割とリーズナブルな値段で松坂牛も食べられる

画像三井家 発祥の地の案内

IMG_0885三井家とライオン 三越百貨店の前にも置かれていた

画像松坂城址

IMG_0898松坂城の天守閣跡

IMG_0904歴史民俗資料館 三井家の特集展示があった


高見山登山口から高見山までの道の初めのところはきれいな山道だった。そしてこれは昔の伊勢南街道で高見山峠を越えて松坂に至る道だったことも初めて知った。また古市の看板も出てきてその市で商いされた品物も書かれていた。それゆえ途中まではよく整備された道だった。高見山の登山口で私はバスを降りたがおばあちゃんは終点の杉谷まで乗って行ったのだろう。おばあちゃんの話を頭の中で反芻しながら、考えてみた。部落にはもう70代80代の爺ちゃんばあちゃんしかいない。若いものはみんな出て行ってしもうてる。もう村には100人もいないと。これって限界集落じゃないか。かなり以前高知大学の大野教授が最初の言った言葉だ。人口に65歳以上の人が占める割合が50%以上で村の共同体としての機能が麻痺してしまっている。それもかなり進んでいるとしかいいようがない。こんな話を聞くと限りない寂しさに襲われる。私が若かったならなんとかせにゃ行かんと考えたものだったが、今は寂しく思うだけの心情しかない。小峠までは約1時間かかった。ここで普通の道路が通っているのを見たがこちらはバスの運行はない。小峠から15分歩くと高見山への分岐があり、さらに進むと白峠に出た。ここまで車で来れるらしい。白峠から少し勾配がある道を歩いて約40分ほどで頂上(1248m)についた。眺めはよく弥山や大台ヶ原が見える。風が強いのですぐ戻ろうとすると若い登山客が一人登ってきた。そこでセルフタイマーで写真を撮るのをやめ、撮ってもらうことにした。彼は私が登山口から歩いてきたことを讃えてくれた。彼は白峠から登ってきたので登山としては簡単な道だったから、気まずさを感じたのかもしれない。頂上は15時40分到着で約3時間かかった。下りはバス停までやく2時間30分で降りなければならない。16時50分白峠着、かなり汗をかいたので、10分休憩。再び急ぎ足で登山口に向かう。17時50分高見登山口着予定より早くついたので、今日泊まるビジネスホテルに電話する。遅くなるのは全く構わないという。携帯で松坂到着時刻を調べると21時14分だ。

IMG_0840小峠

IMG_0844盗人岩

IMG_0848白峠 下左に軽のバンが見える

IMG_0858弥山か

IMG_0861霊峰高見山1230m

IMG_0862望遠鏡がついた展望台 ただし、望遠鏡は壊れていた

IMG_0864避難小屋

IMG_0868頂上で記念撮影



高見山は聞いたことはあったが聞いてから20年近く登っていない。なぜ登ろうと思ったかは、2月26日に武奈が岳に登ったときタクシーで一緒だった神戸外大ワンダーフォーゲル部OGの女性が良い山だったと言ってたので登る気になったのだ。調べてみると大和上市からのバスはなく、奈良交通と東吉野村のコミュニティバスを乗り継いで登山口まで行かねばならないことがわかった。まず近鉄榛原駅から奈良交通バスで日吉の里マルシェまで行き、そこから東吉野村のコミュニティバスで高見山登山口に行くのだ。27日(金)と言うのも理由がある。28日(土)は奈良交通のバス土日は運行してないのだ。奈良交通のバスは10時6分に日吉の里マルシェについた。奈良交通の営業所でコミュニティバスは10時34分に出ると聞いていたのでマルシェ(道の駅のようなもの)に入ってみた。しばらくして出てくるとコミュニティバスの運転手がなぜ10時8分のバスに乗らなかったのかと聞いてくる。奈良交通に問い合わせたときに34分と言ってたので、と言うとあいつらこちらのバスの時刻まったくわかっていねえ、とそれであんんたどうするの?と聞かれ私は次のバスを待つしかなかった。次はなんと11時58分である。私は1時間50分時間をロスしてしまったわけである。バス待ちしているとおばあちゃんとおじいちゃんがきた。二人とも杉谷まで行くらしい。お互いになぜ榛原まで出てきたのか聞いている。そして子供孫の話になった。二人とも80歳を超えていた。そのうちおばあちゃんが私に声をかけてきた。どこまで行くのかである。私は高見山登山の為、高見山登山口まで行くのだと告げると、なぜさっきのバスに乗らなかったのか聞いてくる。私は乗り遅れたのだと言うだけにとどめた。するとこの時間から高見山登って帰ってくるなら最終バスに間に合うように降りてこないかんという。最終バスは確か6時を回った頃だともいう。私は早めの昼食カップヌードルとおにぎり2個食べ、マイクロバスに乗った。バスは12時30分に高見山登山口についた。バス代はなんと100円である。登山口にトイレがあったのも嬉しい。

IMG_0819日吉の里マルシェ 道の駅のようなもの ここまで奈良交通が来ている

IMG_0821高見山登山口バス停

IMG_0824高見山登山口は旧伊勢街道

IMG_0826旧伊勢南街道の案内

IMG_0832ツルアジサイ


安達太良山の登山で中ノ沢のコースはほとんど使われていないのか、晴れていたので方角を誤らなかったのがよかった。

P5111353鉄山方面を見る

P5111362標識 錆び付いて字もまともに読めない

P5111371牛の背 馬よりもなだらかだが滑りやすい

P5111377やっとまともな標識に出会えた

P5111383安達太良山山頂写真を撮るためセルフタイマーをかけるが何回もカメラが風のため転がった。風が強くてすぐに下山する

P5111384遠くから見ると鉄の馬のように見える。地震観測装置

P5111387イワカガミ?

P5121390磐梯山・安達太良山の土産 酒も良いが蛍の手拭いが気に入った。


安達太良山への登山は二本松にするかそれとも中ノ沢にするか迷っていた。普通なら二本松なのであるが、歴史民俗資料館で見た中ノ沢にこけし作りの伝統があるので帰りにでもこのコケシを買おう思ったのである。地域地域によって髪の付け方や顔の表情、肩の模様が違うのだ。地域ごとに系統があり、中ノ沢をいれて東北地方には12系統あるそうだ。

5月11日フォレストリゾート猪苗代で朝食を取った後、8時に出発した。36分に白糸の滝がある沼尻登山口に到着、入り口の看板に平成9 年に女性4人が遭難死した記事が書かれていた。薄々知ってはいたが、硫黄のガスを吸って意識不明になり倒れてそのまま死んだというのは初めて知った。東京からの男女14名の登山者で尾根道の強風を避けて谷筋に降りて硫黄のガスを吸ってしまったらしい。9時30〜40分にかけて猛烈な硫黄の匂いを嗅ぐ、幸いコロナでマスクをしているので防げているのかも。所々に残雪がある登山道を行く。50分スパッツ装着、雪渓をトラバースする。アイゼンを履くほど雪が硬くない。むしろ少しズボッとするぐらいだ。ここは全く標識がない。所々にピンクのテープがあるくらいだ。時々地図と磁石で確認していく。10時45分稜線にでる。景色が素晴らしいが突風も時々吹く。12時30分「やはずの森分岐」に出る。森と言うが全く森はない。花崗岩のボロボロした痩尾根を歩く。雪はない。12時45分山頂に到着、記念撮影してすぐに下山にかかる。再び「矢筈の森分岐」ここでカロリーメイトとハムの昼食、この辺りは道が少し違うだけで全然違うところに行ってしまう。何度も地図の確認ときた道を確認しながら下山する。途中1人だけ登山者がいた。14時30分再び雪渓のトラバースだ。きた時の足跡は全く消えている。キッキングで平らな面を作りながらトラバースを無事終了。早足で登山口に急ぐ。16時登山口を出発10分走ったところで中ノ沢のこけしの販売店に着くが平日なので営業はしていなかった。高速を利用して郡山到着、走行キロは174kmでリッターあたり15,5km走っている。郡山でやまびこ374号東京駅で5分の乗り継ぎ時間で夕食とビールを買い走ってひかり661号に乗り、日付が変わる少し前に家に着く。

P5101280中ノ沢のこけしの記事 歴史民族資料館にて

P5111328登山者へ有毒ガスに関する注意

P5111330白糸の滝

P5111355ショウジョウバカマ

P5111356谷筋硫黄の匂いがここから上がってくる

P5111360雪渓かなり長いトラバースだった。