那須岳登山が午前中で終わったので昼からは日光東照宮の見学となった。黒磯駅から宇都宮に出てここから日光線が出ている。宇都宮から約45分だ。JR日光駅の観光案内所で地図や詳しい説明をしてもらう。日光山輪王寺と日光東照宮と日光二荒山神社(ニッコウフタラサンジンジャ)ひっくるめて世界遺産に登録され、これらを含む社寺回りのバスが出ている。一定の運賃で何回も乗車できる分だ。私は時間があまりなかったので日光山輪王寺と日光東照宮を見ることにした。神橋と言うバス停で降りて日光山輪王子に向かう。朱色に塗った鮮やかな橋が神橋で手前に受付があった。受付で橋を渡るのにお金を徴収していた。長さ20mの橋を渡るのに300円いるのだ。もったいないのでやめる。ほとんど渡っている人を見かけない。渡らなくても横の道から日光山輪王寺に行けるのだ。輪王寺の中には千手観音(男体山)阿弥陀如来(女峰山)馬頭観音(太郎山)の巨大な坐像が安置されていた。ここは写真撮影が禁止されているので残念ながらここに画像を載せることができない。一通りお坊さんの案内で一周して最後お守りの売り場に行った。そこで各干支のお守りが並べられ、金色の金箔が塗られたお守りが、一生もののご利益があると告げられた。値段を見ると3000円である。私は一生続かなくてもいいと思っている。毎年いくつかお守りを買う。そしていくつかのお守りを取り替える。大体三年から四年で取り替えている。でも気に入ったものはそれ以上持つことにしている。私はここではお守りを買わずに東照宮で眠り猫のお守りがあれば買おうと思った。輪王寺を出ても雨は少しきつめに降っていた。]
6時30分起床7時に朝食、35分に民宿松葉を出発朝からかなり強い雨だ。48分に湯本二丁目を出発これが一番早いバスだ。8時15分ロープウェイの麓駅到着、ロープウェイは始発が8時30分なので少し待つ。登山客は私一人しかいないみたいだった。気温は16度ちょっと寒い。出発までストーブの前で暖をとった。ここのロープウェイは私が今まで乗ったロープウェイでは最大の大きさだった。20m2はあるだろう。最大旅客定員は100名だそうだ。約5分で頂上駅に到着。雨具を着る。45分出発。霧が濃く視界はほとんどない。ただ道が頂上に向かって伸びているだけだ。9時47分峠の茶屋跡に到着。霧雨に変わる。時折鶯の声が聞こえる。視界は5m。10時5分頂上(1915m)に到着、小さな祠があったので下山の安全を願い100円のお賽銭を入れる。15分山頂を後にする。全く何も見えないほど霧が濃い。10時30分登山者二人に会う。ちょっと雨が止んできたので出かけてみたということだった。11時5分に山麓駅到着。ここで地ビールと孫の土産にボールペンセットを買う。ここから黒磯駅に向かう。頂上は那須岳でなく、茶臼岳という名前だ。私の最初の予定は茶臼岳から三斗小屋温泉に行く予定だった。頂上から約1時間で行ける。茶臼岳頂上で少しの時間どうしようか迷った。しかしあまりにも霧が濃いし、私はこの山は初めて登山するので道に迷っても気づかないのではなと思った。あまり早い下山だった。私はこの後日光に向かった。
日光東照宮へは小学校の遠足で行ったことがある。もう63年も前のことだ。多分電車で行ったと思う。今のように大型観光バスが無かった時代だし、高速道路もあまり無かったと思う。7月のまだ梅雨が明けていないけれど、那須岳と男体山どちらかに登ることができたらと計画した。8日は朝から雨だった。出発する11時過ぎに少しおさまってきた。新幹線は大雨で山陽新幹線に遅れが出ていたため新大阪駅で20分の延着だった。その後東北新幹線と乗り継いだ。今東北新幹線はが三十年前に東京発になったが、その前は上野発だった。今東北新幹線の上野駅は地下の駅になっている。今年は東京発になって30周年という。那須塩原は止まる列車が少ないはやぶさは止まらないし、やまびこも止まる列車もあれば止まらない列車もある。那須塩原からは黒磯駅に、ここから関東自動車バスで湯本二丁目まで行った。バスはほとんど土砂降りの中を走った。しかしバス停の名前や行く道中にいろいろな施設がある。大麻博物館・お菓子の城・チーズランド・ハチミツ専門店・パン屋さん・那須サファリパークなど時間があったら降りてみたいところだった。バスを湯本二丁目で降りると硫黄の匂いが立ち込めていて、温泉街に来ていると感じられた。民宿「松葉」はバス停から5分ほどのところで向かいに温泉客用の共同お風呂があった。こんなひどい雨にもかかわらず、泊まり客は3組いた。着くとすぐに夕食で鮎の姿焼きが出た。マグロの醤油漬けや豆腐と肉の炊き合わせ、ほうれん草のサラダなどあり、美味しくいただいた。現地の天気予報によると明日もかなりの雨であった。少し寒い。石油ファンヒーターをつけるが、体の芯までぬくもろうと旅館組合の共同風呂に行った。中は熱い湯舟とぬるい湯舟があり、じっくり温泉を楽しんだ。
萬岳荘を出るときにきづいたのだが、どうやら「四季の森」でカメラを忘れてしまったらしい。オリンパスのTough4というデジカメとしてはちょっと高額のカメラだ。だが後輩に電話するには早すぎる時間だ。このカメラ3代続けて使っている。とにかく頑丈で水の中でも使える。雨の時には必ず持参するカメラだ。それを忘れるとはどうかしている。前回のレポートは携帯で撮った写真のアップだ。大判山への登りはキツかった。ヤマガラの声やホトトギスの声、そして四六時中ウグイスの声が聞こえる。ヒグラシもだ。8時43分大判山1696mに到着、小休止。9時を回って後輩に電話する。カメラ置き忘れていないか確かめて欲しいと。ここで頂上まで3kmの看板に出会う。9時55分後輩より電話があり、カメラがあったという。雨とコロナで客が全くいなかったのが良かった。コロナは悪いことばかりじゃない。天狗ナギの手前で10時30分になる。ここでちょっと長く考えた。頂上までは1時間もかからないだろう。しかしレンタカーを返すのが18時だ。萬岳荘から岐阜まで余裕を見て3時間とすると15時までに萬岳荘に帰らねばならない。天気がいいのに引き返すのは残念だ。あまり気が進まないが撤退することに決めた。天狗のナギ周辺にはイワカガミが所々に群落を作っていた。携帯のカメラでいろいろな植物も撮りながらの下山だった。11時40分大判山.おばちゃん3人組にあう。恵那山までこれから行くのか聞くと今日はここまでが目標でやってきたという。なるほどこれでいいのだ。何も無理することはない、私が疲労して安全運転できない方がもっと悪い。12時45分鳥越峠で昼食にする。14時20分駐車場に到着。帰りは多治見と太田橋というところで渋滞した。ニコニコレンタカーには18時2分についた。ほぼ予定通りだった。家には21時45分に着いたが満足している
ガソリンスタンドで聞いた通り園原ICへ出て、中津川インターで降りる。そこからクワリゾート湯舟沢を目指した。阿智村役場にも電話して方角を確かめる。富士見台へ行く方向なのでおそらく間違い無いだろうと言われ、少しホッとする。クワリゾート湯舟沢につき、また道を教えてもらう。この先の橋を渡って峠を越えれば萬岳荘だという。簡単にいうものだからついそこかなと思ってしまうが、再び農家の方に聞くとまだ30〜40分かかるという。真っ暗でどう走っているのかもわからない。ただ細い道が続くのが心細かった。峠みたいのを越すとやっと看板があり、萬岳荘が書かれていた。ついたのは午後8時15分だった。2時間半の予定が3時間40分もかかっていた。萬岳荘は全く人気がなかった。誰も泊まり客がいないのだ。大雨の予報でみんなキャンセルしたのだろう。私は予約を入れていたが、管理人はもう来ないだろうと思い帰ってしまったらしい。炊事場とトイレは使えるようになっていた。そこでラーメンを作り、ご飯を炊いた。ラーメン・ご飯・焼き鳥の缶詰の夕食だった。寝る場所は2階の管理人さんの部屋の前がひさしが出て雨が防げたのでそこに寝袋を敷き、寒かったのでカイロを寝袋に入れて寝た。大体10時までに寝たように思う。最初は疲れと眠気で1時ごろまで寝てしまった。そのあとは雨の音が気になって1時間ごとに起きていたように思う。4時50分になった。雨は小降りになる。朝もまたラーメンとカロリーメイトを半分食べた。昨日炊いたご飯は昼飯にした。出発は5時50分で神坂峠の駐車場に車を止める。すでに10台が止まっていた。ここを出て30分登ると平たい場所が出てきた。ここから私は道を間違えた。本来右手に行くところを左に行ったのだ。右は下りになっていてまさかすぐ下りもないだろうと思ったのが間違いだった。やがて道路に出て完全に道を間違ったことに気づいた。再び引き返すと後から来た登山者は私を追い越して恵那山に向かって歩いて行った。私は40分のロスをした。7時35分鳥越峠着
岐阜大仏は像の高さが13,63m 顔の長さが3,63m 目の長さが0,85m 耳の長さが2,12m
鼻の高さが0,36m 口の幅が1,3m 構造は周囲1,8mの大きいイチョウを真柱として内部は木材を組み、表層は竹材で編み、粘土を塗った上に阿弥陀経、法華経、観音経などの一切経を重ね、その上に漆を施して金箔を置いた大仏像であります。私はどうしてこのような大仏をこの岐阜で作られたのか興味を持った。入り口で入場券をもぎっていた中年のおじさんにそれを聞くともともと岐阜は傘と提灯の産地であった。だから竹に関する技術があったこと、紙の和紙はここが産地であった。それでこれらの技術を駆使して大仏を作ったという、入館料は200円だ。ここの観光をおえて関市洞戸にある「四季の森」に向かった。ここのバーベキューハウスで私の後輩が責任者で経営を任されている。岐阜から板取川を遡って約1時間で到着する。この日は雨が降り続いていたので入り口が変更されていた。到着してバーベキューハウスを一通り案内してもらう。去年・今年とさっぱりらしい。雨がさらに激しくなってきた。早々に別れて恵那山の宿泊地萬岳荘に向かう。ナビに萬岳荘は出てこない。近くの目印になる神坂峠も出てこない。レンタカーのナビで以前宮崎で困ったことがあるが、それと同じで目的地が出てこない。名称・住所・電話で試しても駄目だった。阿智村で引くと出てきたのでそれに従うことにした。かなり走ったがどうも思った方向に車が進んで無いようなのでガソリンスタンドで聞くとここは清内路村だという。そして萬岳荘に行くには高速道に入り恵那山トンネルを抜けてすぐの下り口を出てそれからはそこで聞くように言われる。その通りにするとなんとか近づいてきた。クアハウス強清水までたどり着いたときは午後7時30分にもなっていた。そして神坂峠を超えていくと後40分かかるという。
朝日新聞に名和昆虫博物館の記事が載ったのは3月20日ごろだったと思う。一度行きたいと思っていたが、コロナでなかなか機会が見つからず、大阪の緊急j事態宣言が終わる1日前に岐阜に出かけた。6月19日早朝に大阪を出て米原・関ヶ原乗り換えで岐阜に9時38分に到着、ここからニコニコレンタカー を借りて名和昆虫館に向かった。昆虫館は岐阜城の一角にあり、入館料は600円。建物は2階建てで30分ぐらいで見て回れる広さだ。蝶々の展示が素晴らしい。また玉虫や甲虫など多数展示されていた。私が興味を持ったのは玉虫で正倉院の玉虫厨子が一昨年福岡の古賀市で見つかった玉虫と同時代のものか、あるいは朝鮮も同じ形をした玉虫がいるのか興味があった。古賀市で見つかったものは朝鮮半島経由かもしれない。もし日本のものだとしたら国宝級の発見となる。
この昆虫館のそばに歴史博物館があったがコロナで閉館していた。ついで岐阜大仏を見た。岐阜大仏が日本三大仏と言われているそうだが、私は初めて聞く言葉だった。奈良の大仏・鎌倉の大仏は誰でも知っているが、岐阜の大仏は知らない人が多い。「岐阜大仏」は岐阜県の重要文化財に指定されている。黄檗宗金鳳山正法寺に祭られ、黄檗宗萬福寺の末寺として今日に至っている。正法寺は天和三年(1683)の創設であり、大仏殿建立は第11代惟中和尚の時代です。惟中和尚は度重なる災害の被害者の追善を目的に天明7年発願されましたが,志なかばに亡くなられ、その後を継いだ肯宗和尚の手によって文政12年(1832年)に完成しました。
滝廉太郎はこの豊後竹田で12歳から二年半過ごすことになりました。直入郡高等小学校を卒業すると東京に帰り、高等師範学校附属音楽学校(今でいう東京芸術大学音楽部)へ進みます。廉太郎は竹田城を散策するのが好きでした。土井晩翠の詩に曲をつけた「荒城の月」は名曲です。また彼は児童が歌う歌もわかりやすいものに作曲しています。「蝶々」そして有名な「花」も彼の作品ですが彼は生涯に僅か34曲しか残していません。いずれも有名な歌ばかりでした。岡城は明治維新後に城館は取り壊され今では石垣のみ残る姿になりました。この石垣の上の二の丸跡に滝廉太郎の像が建っています。私は滝廉太郎記念館と岡城址を見学して福岡空港にレンタカーを戻し、帰りはピーチで関西国際空港に帰りました。
7022912]大手門跡
朝食を6時にしてもらい、6事30分に民宿「清流」を出発した。6事55分登山口駐車場に車を止め7時に出発、35分で最初の滝に出会う。7時50分に5号目小屋に到着、二十人位樹が止まれる大きな小屋だ。曇りの天気だが、雨が降るような雲でない。頂上近くの大滝ですこし休憩。昔はここで身を清めてから山頂を目指したらしい。頂上は1756mで覚えやすい。稲垣吾郎さんの垣をとっていなごろうと覚えた。11時15分祖母山山頂に着く。薄曇りだが視界は良くない。すぐに下山を開始する。12時国観峠ここで昼食カロリーメイトとカルピス、12時20分に出発13時小休止祖母山へ3、6km・神原へ3、7kmのほぼ中間地点だ。13時58分駐車場に到着14時35分滝廉太郎記念館着、瀧は東京で生まれる。父の転勤で豊後竹田にきた。父は内務省の役人だった。
東京音楽学校を主席で卒業。彼は笛、バイオリン、ピアノを得意意図した。明治十二年生まれ、明治政府の勧めでドイツライプリッヒで」音楽を勉強中に風邪を引く。ドイツで病院に入院するも治らず、日本に呼び戻される。そして病気療養中に亡くなった。わずか23歳と10カ月の命であった。明治三十六年死亡。彼は中学より作曲の才があった。
石木ダム訪問を昼まで続けた。ダムの取り付け道路の工事が進んでいる。重機が唸っているそばで農民たちは座り込みを続けているのだ。なんともやりきれぬ思いだ。ただ帰りに石木川と川棚川の合流点から見た虚空蔵山の形は美しかった。熊本の郷土史家勇知之氏のところに少しお邪魔して豊後竹田に向かった。国道57号線はかなりの車が走り、交通量も多い。阿蘇大橋は熊本地震で落橋した。平成28年4月16日のことだ。約5年の歳月をかけ、新阿蘇大橋が今年3月7日に開通した。落ちた阿蘇大橋は熊本地震の遺構として残すそうだ。阿蘇を見ながらドライブする。玉来で国道639号線に入ったが、2トン車やっと通れるほどの細い道だ。いくつかのヘヤーピンカーブを乗り切り、やっと神原に出る。民宿「清流」に着いたのは午後6時30分だった。民宿の主人に帰りの道も国道639合繊か聞くとそれは旧道で今は新しい道ができて竹田までなら30分もかからないと言う。旧道のかなり登ったところにある小学校へ民宿の主人は毎日登校していたと言う。腹が減っていたので夕食を取ることにした。アマゴの姿焼き、マスコ(これはマスの卵だと言う)鮭の卵いくらと違ってあっさりした味わいだ。それとタラノメ、コゴミ、コシアブラの天ぷらサフランの味をつけたポンカンのシャーベットは香りが良かった。竹田市はサフランの栽培では日本一だそうだ。夕食後風呂に入って寝ようとするが寒い。15度だ。石油ストーブを出してもらって快適に寝た。
私が大阪自然環境保全協会の「そよご」と言う機関紙に自然保護41項目や山行記録7項目、雨水利用など45項目、蝙蝠の記録10項目、私のピースボートでの旅、および一人旅99項目を載せました。今般今枝会長が1号から338号まで約28年間の活動記録のDVDを作成していただきました。私用のDVDもあります。送料込みで六百円です。連絡用メール riceway@eco.zaq.jp
私が大阪自然環境保全協会の「そよご」と言う機関紙に自然保護や山行記録、雨水利用、蝙蝠の記録、私のピースボートでの旅、および一人旅を載せました。今般今枝会長が1号から338号まで約28年間の活動記録のDVDを作成していただきました。私用のDVDもあります。送料込みで六百円です。連絡用メール riceway@eco.zaq.jp
今座り込みを続けている方たちは工事が2箇所になったため、上の方をを女性が下の団結小屋の方を男性が陣取って座り込みを続け、支援者たちはそのどちらかに行っていると言う。6月15日に福岡高裁で意見陳述があった。10月に結審を迎えると言う。意見陳述には反対派は地元の人が一人と弁護士が二人、コロナの影響で人数が制限されているからだ。県側は座り込みを続けている人たちに対し、監視カメラでずっと映し出している。女性陣が上の方の座り込みの場所へ行くまでずっとカメラで追い回し、少しでも公務執行妨害の違反で検挙したい構えだ。普通に農業をしたいと思っているただの人たちに何もこうまでしてやらねばならないのはなぜなのだろう。
石木川にダムを作るという目的は①洪水調節②水道用水(佐世保市)③流水の正常な機能維持としている。洪水調節の主なな理由は1990年に川棚川流域での浸水である。川棚川に流れ込む石木川が原因とされているがヒヤリングすると全く関係のない話だという。石木川の濁流が川棚川に上がれ込んで止水を起こしたように思われるが実は川棚川にかかる橋に流木が引っかかり、下流に流れる川の水が木で押し止められ橋の上流側に住んでいる家が床下浸水の被害にあったものだ。岩下すみこ氏の夜とこれもわずか1時間ばかりで水が引いてほとんど被害がなかったという事だ。長崎県側はあたかも大災害が起こったように喧伝しているだけですと言う。次に水道用水(佐世保市)の不足が挙げられる個人の水道使用が漸増するのと、人口の増加を見込んでいるのである。佐世保市は長崎県で2番目に人口の多い都市である。しかし人口は平成22年が261101人平成27年は255439人で5年間で5,662人も減っているのだ。これから先も人口が増える要素はない。佐世保市は以前工業団地を計画した事がある。針生工業団地である。造船業や水産業が衰退する中で工業団地を造成して経済の巻き返しを狙おうとしたのであるが、この工業団地は杜撰な計画で水の確保も石木ダムに依存したため、ダムが着工されないので、絵に描いた餅になってしまった。一社進出した企業もあったが、1年で撤退した。1975年以後この土地がハウステンボスによって生かされるまで、甘えが降れば泥沼のような土地だったと言う。1992年開業以来ハウステンボスの水不足はない。