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5月10/11と福島県にある磐梯山。安達太良山へ行ってきました。朝早い新幹線を乗り継いで郡山に着いたのが10時58分。ここでニコニコレンタカー の車を借りた。磐梯山へは磐越西線に乗って猪苗代駅で降り、そこからバスまたはタクシーということも考えたが、この西線というのは本数が少ない。1時間強に一本で猪苗代からのアクセスもシーズンでないとタクシーの利用になる。結局手前の郡山から車利用が懸命だ。高速自動車網も張りめぐされ現地へは楽に行ける。郡山から磐越自動車道を利用した。天鏡台にあるロープウェイ乗り場に向かったが、ロープウェイは運転していなかった。事前に調べた時に連休から運転することになっていたが、それが終わると運休するみたいだ。本日宿泊予定の「フォレストリゾート猪苗代」に連絡を取って調べてもらったが、7月ぐらいから運転するという返事だった。天鏡台・昭和の森では行楽客が花見に興じていた。私はもう一つの登山口ビワ沢に向かった。ここにビワ沢山荘というのがあったが閉館しており、ここからの登山道もかなり荒れていたので行くのを諦めた。登山計画の中に悪天候の時にチンする(登山用語で行動をやめて山小屋またはテントで待機すること)用に猪苗代歴史資料館による予定をしていたのでそちらに向かった。この資料館は30分ほどで見終わったのだが、そばに野口英世記念館というのがあるのを初めて知った。と同時に野口英世は猪苗代出身ということも知った。小学校の時に野口英世の伝記を読んだ記憶がある。小さい時に囲炉裏端から間違って転げ落ち、手に大火傷を負ったが、それを克服して世界的に有名な科学者になった話だ。今では1000円札の野口英世を毎日見ている。

P5101268行く時に見た富士山 新幹線内では東京に向かって左側に座るのが癖になっている

P5101273今回もニッサンノートだ、ただしeパワーでない

P5101275猪苗代歴史民俗資料館 火山とともに町は発展 麓には温泉旅館やホテル、民宿が多い。

P5101279野口英世記念館 野口英世の功績を讃えている




佐々木高明が昭和46年に出した「稲作以前」は圧倒的な反響をよんだ。日本の農業史の定説を覆す発表だったからだ。弥生時代から水田耕作が始まったと私たち(昭和30年までに生まれた)は学校で教わったからだ。また本人は柳田國男の「木綿以前」を相当意識していたと見られる。そして木綿以前のことは衣住の生活伝統の復元を目的とするものに対し、稲作以前は日本の農耕文化そのものの原点を探ると言って明確に区別している。この論の展開にあたって、大阪府立大学の中尾佐助教授の照葉樹林文化という概念は非常に大きな影響を与えている。この文化の特徴は「熱帯のタロイモの中からサトイモだけを受け取り、ヤムイモの中から温帯原産のナガイモだけを栽培化した。熱帯森林地帯に比べればこの「温帯照葉樹林地帯は、自然の恵みが少ないだけに、そこでの農耕文化は熱帯より高度の技術がなければ成立し難い。それゆえにこそ照葉樹林文化は西方から伝搬して来た高級な農耕をよく吸収してその新しい基礎の上にミレット」(雑穀)・オカボ(陸稲)などをはじめ、蕎麦や豆類を栽培することができたのである」と

照葉樹林文化の発生地は中国西南部の雲南山地付近だろうと推定されている。この雲南山地を中心に東西に延び、その東端が西日本まで達する照葉樹林地帯では、ただ栽培作物の種類や耕作技術に共通の特色が見られるばかりでなく、各種の食物文化やその他、いろいろの面にわたって共通の文化的特色を有していることが注目される。それではこの照葉樹林焼畑農耕文化の我が国への伝来時期は何時ごろと考えられるのだろうか。文化人類学者の岡正雄氏はイモ栽培文化の伝来を縄文中期、雑穀栽培文化を縄文後期に当てている。

中尾氏の場合には、「この文化複合は石器時代の採集経済の段階から栽培農業からたぶん青銅器使用の段階まで連続してきたが、鉄器時代に入る頃には照葉樹林文化の独立性は死滅してしまったと考えている。とその下限を示している。

以上「稲作以前」よりポイントを解説

P5241411「稲作以前」佐々木高明著

P5241412雲南から西日本の照葉樹林帯

P5241413照葉樹林文化の農耕の発展中尾佐助氏によるなお文化複合はⅰとIIあるいはⅡとⅢのように複合した概念を捉えている



佐々木先生は現地での調査を綿密に行っている。立命館大学探検部の顧問をしておられた先生は台湾の蘭嶼とフィリッピンバタン島の文化の類似性に着目し、1970年3月から3ヶ月にわたって10名の探検部員とともにバタン島の調査をした。調査項目は農業とその経営方式、漁業とその労働形態、集落住居の諸特質、社会組織とその編成原理、宗教と儀礼の問題である。かなり文化人類学的要素の多い学術探検隊であった。バタンの農業は森林植生を失った土地に展開される「焼き払い」草やブッシュそして少し太めの木などは根元に刈り草を置いて燃やすことが行われていて、昔森林があった時代には焼畑が行われていたであろうと推測される。佐々木高明はこのような現象を焼畑耕作が消滅してゆく過程にしばしば見られる衰退型と捉えている。この島で栽培される作物は熱帯地域に発達した「根菜型農業」とし、食用になる作物は30種以上で中でも主要な作物は「さつまいも・トウモロコシ・ヤムイモ」であるが生産量が多いサツマイモは家畜の飼料としても用いられているがヤムイモは飼料として用いられずもっぱら食用として用いられる主要な作物である。その植え付けに際しては豚や鶏の供犠を伴う農耕儀礼が現存することを確かめている。

P5221409ヤムイモの植え付けに伴う鶏の供犠

P5221410左 鋤を用いた耕起作業 水牛を用いている

右 耕作に用いる堀棒 以上 「バタンの自然と文化」より



佐々木先生は五木村の後に1963年7月から1964年3月末までネパールとインドで民族調査を行っている。日本民族学協会の主催による「第3次東南アジア稲作民族文化調査団」の一員としてである。団長は川喜田二郎でインド高原のバーリア族の焼畑の研究を行ってきた。これは月刊「地理」の中で「バーリア族調査記」と言う形で出されているが、これとは別に「インド高原の未開人」と言う本を1968年7月に出版されている。彼が前書きの中で「バーリア族の一村落で私が具体的に体験し、村人との生活の関わり合いの中から私自身が確かめた事実をできるだけナマの形で記述し、それをもとにこのむ村の生活誌、あるいは民族誌を描き出そうと言うことであった」としている。私はここに彼が日本との比較の中から歴史的な視点が加わったと思っている。生活誌・民族誌は歴史だ。過去を見つめると定期的な採集していた時代が見えてくる。また彼は焼畑農業の耕地の収穫量と養える人数の計算までしていて、次第に換金作物にとって変わっていくことも見据えている。クルワ(焼畑)の農業経営で人口増加による焼畑民のとるべき道も焼畑から定着農業への転換(進出)または都市への出稼ぎ労働が必要になるだろうと

P5221406インドダバニ村の風景(インド高原の未開人より)

P5221407トウモロコシとモロコシの混栽培 傾斜が30度(インド高原の未開人より)


民族学博物館の企画展「焼畑 佐々木高明の見た五木村 そして世界へ」は3月10日から6月7日までの開催である。先生は「稲作以前」に於いて日本の農耕の起源を縄文時代とした画期的な研究で知られる。本を書かれた当初は弥生時代から農耕が始まったという定説に反するとしてかなりの学者から袋叩きにされたらしい。しかし東北や関東の縄文時代の遺跡の中の土器からもみや芋・豆などの痕跡が発見されるにつれて焼畑農業が弥生時代より前になされていた。という事実が積み上げられて今では稲作以前から原始的な焼畑の農業が営まれていたというのが明らかになった。

佐々木高明は九州の五木村に入り綿密な調査を行っている。焼畑農業が営まれている地域の規模、焼畑を行うにあたって森林、原野の草木の伐採のやり方、特に木下ろしのしかた、木渡りは九州にあって四国にはない、それに伴う儀式、虫追いの行事、伐採後の土地の耕作、数種類の作物を作るその順序、それぞれの段階で使われる道具類の展示、収穫された作物の展示などだ。

IMG_0807佐々木高明先生

IMG_0810五木村の場所 換金作物のお茶

画像日本の焼畑地域の分布図 東北は焼畑が少ない

IMG_0809山で使う道具類

IMG_0815山で使う道具類



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