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27日に堺民俗会の例会で上記古墳群を訪ねました。近鉄壷坂山駅を出るとすぐに「町屋の雛めぐり」と題して高取町の街道筋の町屋、商店等にお雛様を展示しているのだ。今年で16回目で3月1日から31日までの期間展示している。キトラ古墳目当てで行ったのにこんなおまけまでついていた。信号を渡ってすぐの広場に大きなお内裏さまとお姫様が飾られていました。向かって右が内裏様、左がお姫様でした。現在はこの逆が一般的になっています。大正天皇が洋装で即位されてから左が内裏様になったと言われています。さて皆さんの家ではどちらでしょう。壷坂寺では大雛曼陀羅公開を4月18日までやっています。

さてキトラ古墳近くの畦道を歩くとタンポポが多くみられました。多くはカンサイタンポポでしたがそれに混じってシロバナタンポポが3点ありました。キトラ古墳は壺阪山駅から西の方向にあります。正確には明日香村阿部山字ウエヤマです。勝わ58年にファイバースコープによる調査で奥壁に玄武の壁画があることがわかりました。平成8年に発掘調査が行われ、直径13,8mの二段に築かれた円墳であることがわかりました。平成10年には青龍、白虎、天文図が平成13年には朱雀が見つかり、平成12年に国の特別史跡に指定されました。キトラ古墳壁画体験館・四神の館は入場無料でこの日はK専門員に解説していただきました。面白かったのはキトラの名前の由来でした。何やら裏山に古墳みたいにがあるので調査してほしいと地主から考古学者に依頼があったそうです。そこで盗掘跡からファイバースコープを使って内部を見て最初に玄武の亀の絵が見つかったそうです。その後の調査で虎が見つかりました。さらに反対側を調査しようとしてファイバースコープを回すと折れてしまいました。それで名前がまだない古墳をなんと呼ぶか研究者達が相談し、最初が亀、次が虎ですのでキトラとなったそうです。

IMG_0705第16回町屋の雛めぐりの看板

IMG_0707高取町観光と薬との町

IMG_0708町屋の雛飾り

IMG_0714町屋の雛飾り

IMG_0718町屋の雛飾り

IMG_0713広場に祀られた大きな雛人形



3月25日女房の母親喜美おばあちゃんが95歳の誕生日を無事迎えられました。先日転んで脇腹を打って数日元気がなかったが今は回復し元気になりました。ただ自分で体重が支えられなくなってきたので用便の時誰かついていなければならない。女房も母親の体重を支えるのは辛くなってきたという。私が外出した時など早く帰ってきてくれと頼まれることが最近増えました。

P3250941ケーキの上に緑の9 と黄色の5が飾ってある

話は変わりますが、24日堺の産業振興センターで「橋幸夫」さんの引退公演があり、見に行きました。4年前八尾のプリズムホールで公演された時も行きましたが、今回はこれが最後ということで引退した後どうするのだろうとそれに興味がありました。少し前には御三家の一人だった西郷輝彦さんが亡くなったばかりで、私たちの年代も寂しくなったという印象があります。石田社長(夢グループ)との対談で引退公演は来年の5月3日(橋幸夫の80歳の誕生日)まで160回やるとのことです。引退後は大学生になりますと。京都芸術大学の書画コースに合格されているそうで来年の4月になったら大学に通うそうです。18曲歌われ、ドラムを叩かれました。(私は何度かみています、上手です)それとピアノも弾きました。これは初めてみました。最後は吉永小百合さんとのデュエット曲「いつでも夢を」の大合唱で終わりました。


3時40分になった。女性たちはまだ降りてこない。坊村のバス停に行くとタクシーが1台止まっていておばちゃんが一人乗っていた。乗合タクシーか聞くとそうだと言い、名前を聞いてきたので「よねみち」ですと答えるとトランクを開けてくれてリュックを詰めてくれた。それから約10分して行きに一緒だった女性たちが降りてきた。アイゼンを外すとすぐに乗車してきた。頂上まで行ったのか聞くとそうだという。「達者やな」というと「雪が締まっていて歩きやすかった」という。それから何となく山の話になって最近登った山では「高見山」が良かったという。高見山という名前の山はいくつかあるが奈良のという。滋賀の高見山は知っていたが奈良のは知らなかった。主婦か聞くとそうでないという。「じゃ勤め人ですね」と言って話をそこまでにした。すると彼女らは「実は神戸外大のワンダーフォーゲルクラブ」にいましたと言う。私は名刺を出して「清貧人のホームページをみて欲しい、山行記録も載っているからと。今度は運転手さんに鮒鮨を20年近く前だろうか針生で買ってすごく高かった話をすると、今材料のニゴロブナが取れないのでほとんど作っていないという。もしあるとすれば堅田駅に西友(にしとも)という近江今津本店の店があるから寄ってみたらという。でも5000円であるかなとも言う。堅田駅について彼女らと別れた後、西友に行ってみると鮒鮨は売っていたがスライスされた6枚とあゆの甘露煮みたいなものと合わせて売っていた。消費税を入れて2000円弱だった。やはり一本のものが欲しい。ここでは「魚くるみパック」を買い、あと堅田の地酒『浪の音」を買って帰った。

画像乗合の琵琶湖タクシー

P2260744魚のくるみ煮 清酒浪の音 右お札護法尊(泥棒除け)

左お札千手観音 健康お守り


武奈ヶ岳登山4

2022年03月22日

昼食はカップラーメンとビスケットですました。あらかじめテルモスに熱湯を入れてきているので注ぐだけだ。20年も前に金剛山に登るときにタイガーマホービンと山用に売られているテルモスの性能を比べたことがある。5時に沸騰させたお湯を両方に入れ、金剛山の頂上で早めの昼食11時にしたとき、タイガーは87度、山用の中国製は78度だった。40年も前はアラジンの魔法瓶を持って行った。まだステンレスのテルモスが改良されていないときだった。でもアラジンのはよく壊れた。タイガー・象印の難点は重い。

10分で昼食を済まし、御殿山にかけて登る。時計を見ると1時50分だ。あと30分足らずで御殿山に着くだろう。しかしそこからくだって4時までに坊村のバス停まで降りれるだろうか迷った。私が手配した乗合タクシーでないので遅れることは許されない。御殿山は断念した。下りはかなりハイペースで降りた。足の疲労感は全くない。他の登山者に追い越されることもほとんどなく、明王院まで一気に降りた。3時5分前にバス停についた。着いて思ったことは御殿山まで登っていたらよかったのにと少し後悔した。

明王院の入り口でアイゼンを外していると白装束の巡礼さんが寒そうに10人ほど手に数珠を持って山門に入って行った。老若の女性ばかりだ。こんな寒い時に巡礼などしなくてもと思っていた時だった。白髪の女性が私に声をかけてきた。「山に登ったのですか」「そうです」と答えると、「お年なのに大変でしたでしょう」とそこで「あなたこそ巡礼姿で寒いでしょう」と言うと「お年は」と言うので「77になります」と言うと

「私いくつに見えます」と言うので「私と同じくらいか年上かも」と言うと「あらそう見えますか私70です」と言う。本当かな?娘さんのような人に腰を支えられて歩いているのでついそう言ってしまったが、でも顔は若かった。悪いこと言ったなと思う。明王院の社務所に立ち寄る。おばちゃんが出てきたのでこのお寺は何が売り物か聞くと「護法尊」ですという。それってなんですかと聞くと泥棒除けというので、珍しいと思った。今までそのようなご利益を持つお寺はなかった。お守りとお札を2枚買った。

P2260737明王院はすぐだ。

P2260738巡礼さんたち

P2260739地主神社

画像トンビ


武奈ヶ岳登山3

2022年03月21日

登りながら同輩の思い出が頭を巡る。彼と最後に会ったのは昨年の12月11日だ。4年前のOB会で「俺は癌でもう1年も生きられないと医者から言われ、こうしてみんなに会いにきたのや」と言っていた。それから3年も生きていた。12月に会ったときは体重が39kgと言う。それでも昨日より500g増えたと喜んでいたのだ。彼の最後の著作は「宮本常一と民俗学」であった。読んでなかなかいい出来栄えだった。まだしたい仕事も多かったに違いない。私も海で働く人々を訪ね歩いたことがある。三重県の鳥羽や石川県の輪島、そして愛媛県の佐多岬の海女士(これは男が潜るのだ)そんな思い出が脳裏にかすめ、ただ歩いているだけの登山だ。そこへ後輩から電話がかかってきた。「森本さん死んでしまったけど、どうするのですか」「まあ葬儀にはコロナだから行けないので弔電でも打っといたら」と返答した。それから彼についてごちゃごちゃ話すので「登山中だ」と言って一方的に電話を切った。雪はしっかり固まっているので登山道を踏み外さなければ、ズボッと潜ることはない。ただスノーシューの滑った後は道がわかりにくくなっていた。ふもとで積雪50cmマイナス2度だからこの辺は雪が深く気温はまだ低いであろう。坊村⇔御殿山の標識があった。標識の上部だけ頭が出ているから積雪は1mを超えているだろう。標識で小休止した。ここでまた電話が入った。先程の先輩である。彼は同輩と先輩たちに連絡を取るから米道は同輩と後輩たちにそれも親しかった奴らに電話してくれと言う。登山が終わったら電話するからと答えながら、先輩に彼にまつわる話を聞く。これで1o分はロスした。今回の登山は電話だけで30分もロスしている。一本松の手前でおじさんの落人に危うく巻き込まれそうになった。ほんの30cm横を滑り落ちて行った。トラバースがきっちりできていなかったようだ。この調子だと御殿山も無理かもしれない時計は午後1時だった。20分登った一本松で休憩し、昼食にした。

画像御殿山コースの標識

P2260729歩きはじめは林間の道だ

P2260731急坂を登ると少し視界が開ける

P2260734標識のところで記念撮影



武奈ヶ岳登山2

2022年03月20日

堅田駅の合弱バスのりばには8時52分発細川方面と出ている。しかしそれらしいバスはこない。別の方面に行く運転手さんに聞くとそのバスは運休しているという。こないわけだ。坊村まででも2時間はかかる。今日は運の悪い日だ。もうやめようと思った。バス停付近をみまわすと2人の山ガールをとうに過ぎた。でもおばちゃんというには失礼かもしれない夫人が2人いた。何でいくのか聞くと乗合タクシーだという。まだ席は空いているのでしょうかと聞くと琵琶湖タクシーに電話してみたらどうですという。早速電話を入れると一人分空いているという。ラッキーだった。それで堅田駅を乗合タクシーで9時10分に出た。帰りも彼女たちは乗合タクシーを予約しているので再び琵琶湖タクシーに電話して空いているか聞くと一人分空いているという。そこですぐ予約を入れた。ただ彼女らが坊村に午後4時出発なのでその時間まで降りてくることになった。ぼう村までおよそ35分。降りるとすぐトイレがあり、先についた登山客が10人ほど利用していた。きれいな便所だった。登山者はその後も続々現れ、スパッツにアイゼン姿が多い。アイゼンも最低6本爪位樹が多かった。アイゼンとスパッツを装着。ところが愛染の整備を怠っていたので錆び付いてか伸びないのだ。登山靴に合わすことができないで出発するのは危険だ。手で引き伸ばそうとしたが無理だった。仕方なくビクトリアの10徳ナイフを出してポチの部分を押し込んで引っ張り出した。こんなことに30分もかかってしまった。麓の明王院から雪の登山道を少し早足で歩く、雪なのでそんなに時間が稼げるものでない。30分歩くと汗がじんわり出てきた。登山用の下着、ウールの山用シャツ、キルティングジャンバーの3枚だ。11時にまた小休止する7〜8人が追い越して行った。11時過ぎて某水道屋さんから電話が入った。よく入るものだと感心した。部品が入ったから取り付けに行くという。女房に電話して時間があるか聞く。OKだというのですぐ某水道屋さんに電話を入れる。それから15分ほどして先輩から電話があった。私の同輩が昨日死んだという。電話を切ってしばらくボートする。

P2260722坊村のトイレ

P2260723武奈ヶ岳への登山道(御殿山コース)

P2260724坊村のバス停 帰りの乗合タクシー集合場所

P2260725この辺りの代表的な住まい 屋根のすぐ下に「水」の切り抜きがある


去年7月より標記講座を受けてきました。講座は7月・9月・11月・12月とあり、11月・12月は事例見学もあり、東京へ行ってきました。そして12月11日に試験があり、私はアドヴァイサーの部門で受験、雨水デザイナーは1級建築士の方が受けていました。1月15日に合否の判定で私は合格でした。この試験は2018年から実施され雨水デザイナーと雨水アドヴァイサーは23人誕生しています。関西で私は5人目の合格者でした。試験で難しかったのは畜雨計算です。それぞれ屋根・庭・池・舗装道路・グランドなど畜雨係数(日本建築学会が数値を決めている))があり、雨が1時間に10mm降った場合の蓄雨量の計算です。それで雨を降った場所に留めて外に出さないためには浸透ます、浸透トレンチ、治水用貯留槽の設置などを計算するものです。試験時間は90分で敷地内に降った雨が外に出ないように計算とそのために設置する浸透トレンチの数を回答しました。76歳になって試験を受けるとは私自身思っていませんでした。平成25年(2013)に太陽光発電アドバイザー試験に合格して以来です。この時68歳でしたからこれでおしまいと思ってましたが。今はあと一つ特許を取りたいと試行錯誤しています。

IMG_0700雨水アドヴァイサー認定証と認定カード


武奈ヶ岳登山1

2022年03月12日

武奈ヶ岳登山前に前回の今でも活躍する伊勢商人の答えを発表します。右の亀甲紋に大・K&Kは国分グループ株式会社です。千七百十二年創業当初は醤油の醸造業をしていましたが、千八百八十年醤油醸造から撤退し、総合食品卸業を展開しています。スーパーなどで国分の缶詰やK&Kのマークが入った商品を見られた方も多いと思います。続いて右下はちくま味噌です。元禄初年(1688)塗物店として江戸に進出その後深川永代橋際で味噌醸造を始め、乳熊屋作兵衛商店とした。乳熊がちくまになったのである。

左上は小津和紙店操業は承応二年(1653)小津清左衛門長弘が大伝馬町に出店和紙を扱った。家印は△に久うろこにきゅうで、絵画、書道、工芸などの分野で扱う和紙全般をとり扱っている。

左下はカネに、にんべんでこのマークはスーパーなどで見られる方も多い。鰹節だしで有名な「にんべん」で宝永元年(1704)に日本橋に高津伊兵衛が出店。通称にんべんが社名となった。現在は13代当主が日本の味を世界へと展開している。そのほかドライフーズなどでも有名である。

さて武奈ヶ岳登山前に山行記録をネットで見た。以前から京阪電鉄がロープウェイの営業をやめていることは知っていた。最初比良駅から金糞峠への道にしようかと考えたが、ネットで堅田から坊村の記事が多く載っていた。今ではこちらが主流なのかもしれない。坊村から御殿山コースだ。私は比良山には6回ぐらい登っている。一番古くは18才の時だから五十八年も前だ。最近は55才ぐらいだからこれでも二十一年も前になる。積雪期の登山は鉢ヶ峯の自然を守る会のメンバー4人と行った武奈が岳からイブルキノコバを廻って金糞峠に出て来たのが思い出される。この時はワカンを持参した。ケーブルで頂上駅まで行き、八雲が原でスキーをしている連中やスノーシューを履いている人、さらにスキーにシールをつけて登っている人など様々なスタイルで山を楽しんでいたと思う。スノーシューはこの頃出始めだったような気がする。八雲が原ではレンタルもやっていた。今回は堅田から坊村御殿山コースで行くことにした。堅田から坊村までは江若バスである。今のJR湖西線は以前は江若鉄道が走っていたところである。年代物のジーゼルカーで車内は軽油の匂いがいつもしていたし、車掌が見回りにきてリュックの大きさで荷物運賃を請求するのだ。いつも余分に取られるので腹を立てていた思い出がある。

IMG_0591伊勢商人

画像JR堅田駅

P2260721江若バス時刻表 時間が載っているから運行していると思う。




前回御師が三重県独自のもののような書き方をしましたが、御師をおしと読み、富士山講で栄えた富士吉田市に恩師町があり、ここでは富士山さん傾斜のために宿泊夜食っ時の提供を始め、神職者として集落の神事や行事を長年支えてきた御師(おし)の人たちの住む恩師町がい、あも大切に残されている。元は江戸時代に流行った富士講がもとだ。直会や節会 精進料理をベースに形成され、ひじき、干瓢、昆布、牛蒡、夕顔の煮物など。

さて江戸時代後期には江戸大伝馬町の木綿問屋街には多くの伊勢商人の館が軒を連ねていました。太物店八ヶ条(木綿問屋の建物について幕府が特別に許した条件)に則った壮麗な家並みを伊勢商人たちは築きました。川喜田家、小津本家、長谷川家(屋号は丹波屋)などがありました。そして今でも活躍している伊勢商人の会社があります。写真で屋号(マーク)を紹介します。なんという会社か想像してください。皆さんの身の回りにあるかあるいは使った(食べた)ことのある会社です。次回の武奈ヶ岳登山の中に答えを書いておきます。これらの流通を支えたのは当時船でした。弁才船は船の側面に菱組の格子と船の後方にある高い舟の艫矢倉が特徴の菱垣廻船が有名でした。明治時代に鉄道が普及し始めるとこれらの船は次第に姿を消して行きます。しかし鉄道の便がない東紀州の浦や村との交流を支えたのが赤須賀船でした。

そのほか三重には著名な方々がおられます。真珠の御木本幸吉、国文学者の本居宣長、樺太探検の松浦武四郎など興味は尽きません。

IMG_0587御師料理

IMG_0592川喜田家・小津本家・長谷川家(丹波屋)

IMG_0581弁才船(菱垣廻船が有名)

IMG_0580赤須賀船

IMG_0591現在も活躍する伊勢商人



私が博物館の次の展示場に行ってちょっと驚いた。御師という伊勢参りの宿の紹介があったからだ。もう15年以上前にこの言葉を聞いたことがあった。探検部の50周年のOB会の時だ。後輩の一人が私のところに来て私のところは代々御師の家なのです。という。最初さっぱりわからなかった。聞くと伊勢参りの時の先導役と宿を兼ね備えた家という。それで今は宿を改造してアパートにしていると。学校を卒業してから就職せずに家業で暮らしているというのだった。私は博物館から帰って御師を調べた。柳田邦夫監修の民俗学辞典に載っていなかった。博物館の展示案内から引用すると「御師とは祈祷師と宿泊業をかけたような存在です。人々は特定の御師の檀家となり、三宮の時はその御師の屋敷に滞在してもてなされました。近世の御師制度は宇治・山田それぞれの自治組織によって管理され、御師は家筋や職務上禰宜の家柄である神宮家、自治組織「会合」の構成員である会合の年寄り家、各町の年寄り家のほか、職務のない平師職などの家格に分かれていました。御師の制度は明治四年に廃止されましたが、その後も旅館を営み、参宮者との関係を保つ旧御師もいましたが、徐々に廃業し、屋敷も姿を消して行きました。現在では丸岡宗大夫屋敷ほか移築された福島みさき大夫屋敷門太郎館大夫屋敷門など、その面影を残す建物もほんのわずかとなりました。「三重県総合博物館展示案内」より

P3060846恩師の宿。俯瞰図

P3060848恩師宿の料理

P3060849恩師宿の門構えと通り

P3060850天から降ってきたというお札



今日はアイゼンの修理をした。グリベルのアイゼンの靴を乗せる部分に薄いゴム板を貼ってみた。巻いてあるビニールの部分が少し破れてきたから上から覆ってみた。爪の部分も地金が出ているので黒の塗料を塗って真っ黒くした。最後はジョイント部分にグリスをつけて引き出ししやすいようにした。次にリュックを直した。肩のベルトの部分がほつれてきているので生地でくるっと一周させてみた。デザイン的にとってつけたようにならないように黒地に小さな花柄をあしらったものがあったので手縫いでとりけた。このリュックはサムソナイト製でカバン・スーツケースメーカーが手掛けたコンピュータ用のリュックで出来がいい。ポケットも4箇所、部屋は2室でコンピュータ収納には別に手提げがついている。中の仕切りもA4の大きさと小物入れが2箇所あり、便利だ。半日かかったが満足している。

P3060843アイゼン 上からゴムを貼った

P3060845コンピュータ収納用リュック