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福ちゃん荘から唐松尾根にとっかかったが雪の踏み跡薄い、多分一人だけ登っていったのだろう。途中倒木などあってなかなか進まなかった。ただ天気だけはいい。30分歩いたところで携帯電話を取り出して位置確認をしてみたがうまいこと情報が出てこなかった。数回試しているうちにバッテリーが1%になっていた。もし迷った場合連絡がつかなくなる。頂上は多分近いと思われるが、3分ほど考えて下山を決意した。11時10分下山開始である。11時30分福ちゃん荘、55分にロッジ長兵衛についてここで大菩薩嶺登山記念に手拭いを買う。長兵衛さんにアスファルトの自動車道と登山道との距離を聞く。自動車道は登山道の倍あると言うので登山道を降りることにした。早朝に歩いた登山道は雪が溶けて泥だらけの道になっている。スパッツを履いているのでそれほど気にならないが、時々スリップして手をつくと泥だらけになる。13時25分千石茶屋に到着、昼食にする。コゲラのドラミングを聞きながら握り飯を食べる。45分に出発かなり急いで降りる。14時23分雲峰荘到着。帰ってきたら風呂に浸かって帰ったらいいと言うおかみさんの計らいですぐに露天風呂に急いだ。そしてその間にお茶請けで出された黒米のお餅が美味しかったので5枚注文した。風呂で汗を流した後すぐに着替えてリュックに梱包し、宿を出ようとするとおかみさんが来て昨日の静岡から来たおばちゃんがあなたのこと心配していたので帰ってきた事を言ってあげると言う。そんなことしなくていいよと言うも、おかみさんはすぐ階段を上がっていってしまった。宿を出ようとすると2階の窓から大きな声で「昨日の露天風呂楽しかったわー」と言ってくる。「えらいこっちゃ」と呟きながら私は急いでバス停に向かった。

P4061079大菩薩嶺の登山案内板

P4061083

P4071101甲州土産


大菩薩嶺登山3

2022年04月27日

5日朝4時45分に起きた。昨夜朝ご飯はおにぎりでお願いしますと言っておいたので握り飯をザックにつめて5時20分に雲峰荘を出た。薄暗いが懐中電灯なしで歩ける。6時10分丸川ぶんき、6時30分平石茶屋ここまで雪はない。カメラの電源が切れたのでバッテリー交換、7時雪が舞い、次第に登山道が雪道になる。犬の足跡と歯科の足跡が入り混じった雪道を歩く。途中でアイゼン装着、しかしどちらかといえばワカンだ。膝まで雪に埋まることが多くなる。8時40分ロッジ長兵衛に到着。長兵衛の前のベンチで朝食にする。若い男性の登山者に追い越される。しばらくして長兵衛さんが自動車で戻ってきた。長兵衛さんに春山ではあんたが一番乗りだと言われる。しかしたった今追い越されましたというと。あなた運が良かった。足跡がついているからそれを頼って言ったらいいと、そして雪がここからはもっと深くなると、ここで1m20だから上のほうは1m50はあるだろうと。ここから福ちゃん荘に向かった。先の若者の足跡が続いているのでそれさえ踏み外さなければ到着するはずだ。しかしその途中でカメラがないのに気づいた。朝食時にカメラをベンチに忘れてきたのかもしれない。戻ってみるとベンチの下にカメラが落ちていた。カメラを拾い少し急ぎ足で福ちゃん荘を目指す。10時30分福ちゃん荘を通過してカラマツ尾根に入る。ホトトギス、」ヤマガラ、ミソサザイの声が喧しく聞こえる。

P4061062シカの足跡

画像犬の足跡

P4061087ロッジ長兵衛

P4061080大菩薩嶺への標識

画像ロッジ長兵衛

P4061081唐松尾根の入り口にある公衆トイレ



大菩薩嶺登山2

2022年04月27日

雲峰寺は天平17年(745)行基菩薩を開山とする臨済宗妙心寺派の名刹で、武田家戦勝祈願寺として歴代領主の帰依が熱く、本堂、仁王門、および庫裏はすべて武田信虎の再建した室町時代の建築で全て重要文化財である。重宝となっている日本最古の日の丸の旗がある。

雲峰荘の露天風呂は重川の渓流沿いにあり、川の流れの音がミュージックだ。温泉の温度はあまり高く無いが、寒くはない。石にもたれて足腰を伸ばすと体がすごくリラックスしてくるのがわかる。おばちゃんがどこからきたのか聞いてくる。大阪からだと言うと、彼女は静岡の少し西から身延線に乗ってきたと言う。手を動かしただけなのか手招きしたのか分からなかったが、おばちゃんの耳が遠いために話し声が聞こえないと思った。近くに寄って話をするとペラペラとスウィッチのないラジオみたいによく喋る。身長が163cmあったけれど腰の手術で6cm減って今は157cmしかない。それが残念で仕方ないと言う。歳は私より一つ上の昭和19年生まれの申年。申年の女はおしゃべりなんですよ。もしよく喋る女の人がいたら聞いてみなさい。大抵申年だからと。本当かいな?家はお茶農家でお茶は年に4回刈入れるという。もう直ぐシーズンに入るが、茶摘み作業が大変なので自動お茶刈り機をお父さんに買ってもらったと、おそらく1時間ぐらい露天風呂にいた。夕食の時間になったので湯から上がった。歳にしては乳が垂れていなかった。ころっとした乳が外に向けてついていた。こういうおばちゃんもいるのだ。夕食は季節の山菜の天ぷらや川魚が出た。タラノメや舞茸がうまい。魚はヤマメか?夕食を食べているとさっきのおばちゃんが急須を持って現れた。実はね私自分のところで作ったお茶持ってきてるのと言って、静岡のお茶を入れてくれた。

P4051031露天風呂

P4051037雲峰寺の参道

P4051038金剛力士像

P4051046雲峰寺金堂

P4051050夕食山菜や川魚を堪能



大菩薩嶺登山1

2022年04月26日

4月5・6日大菩薩嶺へ登山した。当初3月末に行く予定をしていたが旅館にコロナ濃厚接触者が出たため1週間遅れたものだ。大阪から中央線の塩山までは新大阪・名古屋・塩尻・甲府と乗り継がねばならない。旅館の再開がいつになるか分からないのでJRの切符をキャンセルした。その費用が1440円もかかった。名古屋から特急しなのの車内販売はなかった。堺を7時50分に出て、塩山についたのが14時12分だ。6時間22分かかっている。途中茅野あたりから車窓に桜の満開が見える。それが甲府に近づくに連れ桃の花が混じるようになり、韮崎あたりでは桃の方が多くなった。葡萄は沿線から離れた丘のようなところにぶどうの棚が見られた。塩山で大菩薩嶺行きの山梨交通のデマンドバスに乗る。約30分乗車して大菩薩嶺登山口についた。そこから雲峰荘まで5分だった。部屋の数が12しか無いこじんまりした旅館だ。ここで「大菩薩峠」の作者中里介山の記念館を訪ねようとしたら休館中だった。そこで雲峰寺へここは武田信玄とゆかりの深い寺で武田勝頼が織田信長に滅ばされたたあと家臣がこの寺に逃げてきている。再興を期して当寺に納めた武田の軍旗「孫子の旗」「諏訪神号旗」「馬標旗」などが所蔵されている。雲峰荘は小さな露天風呂がある。PH9,9の高アルカリ泉だ。私は混浴の時間に入った。19時から21時までは女性専用になるから16時30分に入った。するとおばちゃん2人が入っていた。一人は私と入れ替わりに出て行った。残ったおばちゃんに女性専用時間帯があることを言うと、私はこの方がいいんですと言う。まあそう言う人もいるのだと感心する。

P4051010車窓から茅野付近

P4051013甲府付近桃畑

P4051016桃畑

P4051019ブドウの棚

画像塩山駅

P4051025旅館雲峰荘

P4051027雲峰荘の番犬


高松塚古墳から近鉄飛鳥駅までの春の植物を写真に撮りました。

IMG_0784柔らかい太陽の日差し

IMG_0785カンサイタンポポ

IMG_0788タネツケバナ

IMG_0789オオイヌノフグリ

IMG_0790クサイチゴ

画像アカメヤナギの芽生

画像ゲンゲ

IMG_0796イタドリ


高松塚古墳は発見から50年ということは1972年に発見されたということで昭和47年ということになる。当時新聞の一面を飾った大発見だった。凝灰岩の切石を用いて作られた石室は幅約1,03m,高さ1,13m、長さ2,65mのものである。漆塗りの木棺が安置され、漆喰を塗った壁面には極彩色の壁画が描かれている。東西両壁には日、月の像と青龍、白虎と男女の群像、北壁麺には玄武が描かれ、天井には星座を配している。西壁面北側の女子群像は見事な女子4人の群像が描かれている。縦縞模様の長いハカマ状のものをはき、両端の2人を前に描き、その間に2人を描き立体感を表している。向かって左端の人物は青色のサシバをかざし、3人目の赤い服の人物は先端の尖った如意を持つ。髪を束ねて後ろで結んでいる様子も繊細に描かれている。西壁面南側には男子の4人群像がある。こちらは女子像に比べて色彩が不鮮明で左から2人目の肩から黄色のやないばこをかけて鮮やかな緑色の衣服を着ている人物だけが目立つ。この描かれた女子の人物が誰なのか?有名な歴史家や松本清張氏、司馬遼太郎氏はともに朝鮮の貴婦人だとしている。さらに金達寿氏は扶余族(騎馬種族)だったとしている。「日本の中の朝鮮文化3』の207ページより

]IMG_0776高松塚古墳壁画館

IMG_0775案内板

IMG_0780女子人物像

IMG_0779パノラマに描かれている


キトラ古墳を出るとすぐ大きな広場になっていてここで昼食をとり、高松塚古墳に向かった。距離にして1,2kmしか離れていない。その間に檜隈寺跡(ひのくま)・於美阿志神社(おみあし)を見て回った。金達寿氏の「日本の中の朝鮮文化」3巻の199ページに檜隈について書かれた興味深い記事がある。「檜隈の地名は帰化人の移住地として有名である。応神天皇二十年の秋9月に渡来した倭漢直(やまとあやのあたい)の祖先にあたる阿知使主(あちのおみ)とその子都加使主(つかのおみ)らの一行がこの地に定住したらしく、檜前にある於美阿志神社(おみあし)阿知使主を祭神とし、使主阿知から転じたものであろう」としている。明日香村・飛鳥保存財団の看板によると檜隈寺跡は神社の境内にあり、塔・講堂と推定される建物跡を残す。「日本書紀」天武天皇朱鳥元年の条に檜隈寺の寺名が見え寺跡からは7世紀末の瓦が出土する。現在塔跡にある十三重石塔は上層の一部を欠いているが重要文化財に指定されている。ここから高松塚古墳に向かうと白い着物姿で高松塚発見50年を祝っておばちゃんたちが踊りを踊っていた。高松塚古墳が有名になったのは壁画が我が国初めてのものであり、美術史や天文学の分野でも貴重なものになっている。

IMG_0757於美阿志神社

IMG_0758十三重石塔

IMG_0759宣化天皇檜隈宮

IMG_0774高松塚の青龍が描かれた着物姿の夫人



K専門員の説明はさらに続く。入り口から入ってすぐ左に古墳のの中の壁画が描かれた空間を再現していた。石室の大きさを内法で示すと高さが113cm,横幅が104cm,奥行きが240cmで高松塚とほぼ同じである。天井の中央に天文図を配置し、天井の傾斜面の東に日像を、西に月像を配置している。そして四方の壁に四神を配置している。東壁には南に向く青龍と寅・卯・辰、南壁には西に向く朱雀と巳・午・未、西壁には北に向く白虎と申・酉・戌、北壁には西に向く玄武と亥・子・丑の獣頭人身像の十二支を四方の壁の下部に3体ずつ配置している。天体図は中央に北極星そのそばに北斗7星を配置している。現在74星座が確認されており、古代中国では天には天帝が治める世界が広がっていると考えられていました。このキトラ古墳は7世紀末から8世紀始めごろに作られた古墳でその大きさは下段の直径が13,8m上段の直径が9,4mの小さな二段の円墳です。そして製作年代は高松塚古墳と比較されることが多く、年代の推定にも石室の天井石を家形石棺としたキトラと天井石を平置きした高松塚ではキトラが古いとされている。高松塚の製作年代は706年から719年に作成されたと見られているが、キトラのはそれより古く700年代前後と見られている。

館内には古墳の大きさを示す円が床に描かれており、正面の壁に青龍、朱雀、白虎、玄武の姿が投影されている。

IMG_0732キトラ古墳

IMG_0734キトラ古墳説明板

IMG_0744四神の館

IMG_0746青龍

IMG_0747朱雀

IMG_0748白虎

IMG_0745玄武