シーボルトは日本追放を受けた後でも再び日本へ行こうといろいろと画策していた。オランダの国王使節ドンケル・クルチウスは長崎奉行に対し、シーボルトの追放解除を申請し、1857年に追放解除が解かれた。彼は2年の契約で1859年に長男アレクサンダー(シーボルトが50歳の時に生まれた)を連れて8月長崎に到着している。この時は文物の収集も多いが、1861年からは幕府の外交顧問のような役割をしていた。イギリス公使館襲撃事件で其の解決に奔走したが、認められなかった。江戸においては幕府役人や医師や技術者たちへの講義等している。シーボルトは1862年に日本を離れたが。アレクサンダーはイギリス公使館の通訳として日本に残る事になった。
シーボルトとアレクサンダー
アイヌの猟師の絵 木に登って獲物を捕らえる図と右は上方にシカが2頭描かれている。シーボルトはアイヌや北方領土にも興味を持っていた
シーボルトが写した樺太の地図
花魁(おいらん)川原慶賀に描かせた
舎密(せいみ)Chemie化学 大阪にあった舎密局は第3高等学
校の源流 右は当時の医療用具
シーボルトとアレクサンダー
アイヌの猟師の絵 木に登って獲物を捕らえる図と右は上方にシカが2頭描かれている。シーボルトはアイヌや北方領土にも興味を持っていた
シーボルトが写した樺太の地図
花魁(おいらん)川原慶賀に描かせた
舎密(せいみ)Chemie化学 大阪にあった舎密局は第3高等学
校の源流 右は当時の医療用具
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