生野銀山は江戸時代幾多の変遷を経て明治に入るのである。維新政府はこれを直接政府の物とし、慶応4年フランス人コワニーを招聘し、朝倉盛明とともに近代的建設と創業を担任せしめた。明治2年10月から明治18年6月までの生産額を工務省沿革報告によると金1,027Kg 銀12,638Kgである。その後宮内省の管轄になった。明治29年に大転換と言うべき鉱山が民営になった。入札の結果三菱合資会社が落札。以後昭和48年に閉山するまで操業した。
明治時代の坑夫
鉱脈の測量風景
エレベーターの巻き上げ機
鉱毒を濾過している池 48年に閉山後45年も経っている
明治時代の坑夫
鉱脈の測量風景
エレベーターの巻き上げ機
鉱毒を濾過している池 48年に閉山後45年も経っている
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