関所を出てからすぐ横の高瀬家資料館に行った。ここは簡単に済まそうと思った。もう1時を少し回っている。雨も止んできた。入り口に誰もいなかったので150円出してすぐ横の資料館に行こうとしたら奥からおばちゃんが急ぎ足で現れた。よくぞ来てくれたでもいうように挨拶され、それからおばちゃんの話が始まった。高瀬家は九州の菊池家を祖としている。大坂冬の陣以降に木曽福島の山村家に仕え砲術指南役やお側役として幕末まで支えた。それと島崎藤村との関係が深く、藤村の姉園が嫁いだ先であり、小説家のモデルになった家であると、又藤村は4人の子供がいて、そのうちの一人4男を2歳から10歳になるまで預かったという。のちにこの子は画家になった。
九代目高瀬新助が奇応丸を発明し、徳川家献上の薬となったという。今ある奇応丸は全て真似をされたもので、江戸時代奇応丸が各地で作られたという。この奇応丸の本家は昭和28年に潰れてしまったということだ。私はここまで聞いて帰ろうと思ったら、2階に上がれという。2階は藤村からの手紙や四男の画家の絵が展示してあった。これで終いではない。庭に出てうちの庭はずっと50m先の高台まであったが、鉄道が通るために没収にあって小さくなったと。庭の説明があったが腹が減っていたのでほとんど忘れた。2時になっていた。すぐに「くるまや」という大きなお蕎麦屋さんに向かった。2時を過ぎてもやっていたのですぐそばを注文した。食べ応えがあるどっしりとした蕎麦で最後には蕎麦湯が出た。
高瀬家の庭
高瀬奇応丸
奇応丸を作った道具類


九代目高瀬新助が奇応丸を発明し、徳川家献上の薬となったという。今ある奇応丸は全て真似をされたもので、江戸時代奇応丸が各地で作られたという。この奇応丸の本家は昭和28年に潰れてしまったということだ。私はここまで聞いて帰ろうと思ったら、2階に上がれという。2階は藤村からの手紙や四男の画家の絵が展示してあった。これで終いではない。庭に出てうちの庭はずっと50m先の高台まであったが、鉄道が通るために没収にあって小さくなったと。庭の説明があったが腹が減っていたのでほとんど忘れた。2時になっていた。すぐに「くるまや」という大きなお蕎麦屋さんに向かった。2時を過ぎてもやっていたのですぐそばを注文した。食べ応えがあるどっしりとした蕎麦で最後には蕎麦湯が出た。



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