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谷川岳・苗場山の山旅と富岡製糸場 7終わり

フランス人の技師長ポール・ブリュナは2人の男の技術者と4人の女性の工女指導者を連れてきました。ブリュナの給料は750円でした。当時の総理大臣の給料が800円だったから破格の給料をもらっていました。家も320坪の平屋建ての家が与えられました。この家の地下にはワイン倉庫がありました。2人の男性技術者は仕事をあまり真面目にしなかったそうです。横浜によく出かけ、遊女とよく遊んだそうです。明治政府は2年目に二人を勤務態度が不良ということで解雇しました。4人の女性指導者は明治8年までの契約期間がありましたが、7年に帰ってしまったそうです。理由はホームシックにかかり、故郷が恋しくなり帰ったとのことです。工女は出来高払いに賃金制がひかれました。工女の募集は13歳から25歳ですが、年齢による給料ではありませんでした。年棒制で一等工女が25円月給にすると2円以上ですが、はっきりした記録はありません。工女横田英の記録では一等工女は1円75銭、二等工女は1円50銭三等工女は1円となっています。工女たちは新入の時は四等工女でしたが彼女らはみんな一等工女になるように努力しました。横田英は1年足らずで一頭控除になりました。彼女らは数年働き、その後地元に帰って製糸場の指導者になりました。蚕は繭を作るとそのまゆんから取れる糸は約1300mでした。繭を取るため釜茹でされた蚕は食糧になりました。昆虫食です。重要な蛋白源となりました。

富岡の町は製糸場とともに発展しました。銀座通りには今は無くなりましたが映画館や高級呉服店そして花街もあり、最盛期には84名の遊女がいたそうです。当時工女たち人ん気があったのがカレーでカレーの高田食堂は昔の味を伝えて現在も営業しています。また上州富岡駅から南へすぐの諏訪神社は月ごとに市が立ちタバコ・絹・麻など商いされたいそうにぎわったそうです。

IMG_0241フランス人の工女指導者たちが住んでいた建物

画像寄宿舎は2棟建てられた・国宝

画像ブリュナ館 瓦葺きの屋根

IMG_0269町案内のマップ

IMG_0270上州上岡駅で記念撮影


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