前回御師が三重県独自のもののような書き方をしましたが、御師をおしと読み、富士山講で栄えた富士吉田市に恩師町があり、ここでは富士山さん傾斜のために宿泊夜食っ時の提供を始め、神職者として集落の神事や行事を長年支えてきた御師(おし)の人たちの住む恩師町がい、あも大切に残されている。元は江戸時代に流行った富士講がもとだ。直会や節会 精進料理をベースに形成され、ひじき、干瓢、昆布、牛蒡、夕顔の煮物など。
さて江戸時代後期には江戸大伝馬町の木綿問屋街には多くの伊勢商人の館が軒を連ねていました。太物店八ヶ条(木綿問屋の建物について幕府が特別に許した条件)に則った壮麗な家並みを伊勢商人たちは築きました。川喜田家、小津本家、長谷川家(屋号は丹波屋)などがありました。そして今でも活躍している伊勢商人の会社があります。写真で屋号(マーク)を紹介します。なんという会社か想像してください。皆さんの身の回りにあるかあるいは使った(食べた)ことのある会社です。次回の武奈ヶ岳登山の中に答えを書いておきます。これらの流通を支えたのは当時船でした。弁才船は船の側面に菱組の格子と船の後方にある高い舟の艫矢倉が特徴の菱垣廻船が有名でした。明治時代に鉄道が普及し始めるとこれらの船は次第に姿を消して行きます。しかし鉄道の便がない東紀州の浦や村との交流を支えたのが赤須賀船でした。
そのほか三重には著名な方々がおられます。真珠の御木本幸吉、国文学者の本居宣長、樺太探検の松浦武四郎など興味は尽きません。
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