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民族学博物館 焼畑 佐々木高明が見た五木村4

佐々木高明が昭和46年に出した「稲作以前」は圧倒的な反響をよんだ。日本の農業史の定説を覆す発表だったからだ。弥生時代から水田耕作が始まったと私たち(昭和30年までに生まれた)は学校で教わったからだ。また本人は柳田國男の「木綿以前」を相当意識していたと見られる。そして木綿以前のことは衣住の生活伝統の復元を目的とするものに対し、稲作以前は日本の農耕文化そのものの原点を探ると言って明確に区別している。この論の展開にあたって、大阪府立大学の中尾佐助教授の照葉樹林文化という概念は非常に大きな影響を与えている。この文化の特徴は「熱帯のタロイモの中からサトイモだけを受け取り、ヤムイモの中から温帯原産のナガイモだけを栽培化した。熱帯森林地帯に比べればこの「温帯照葉樹林地帯は、自然の恵みが少ないだけに、そこでの農耕文化は熱帯より高度の技術がなければ成立し難い。それゆえにこそ照葉樹林文化は西方から伝搬して来た高級な農耕をよく吸収してその新しい基礎の上にミレット」(雑穀)・オカボ(陸稲)などをはじめ、蕎麦や豆類を栽培することができたのである」と

照葉樹林文化の発生地は中国西南部の雲南山地付近だろうと推定されている。この雲南山地を中心に東西に延び、その東端が西日本まで達する照葉樹林地帯では、ただ栽培作物の種類や耕作技術に共通の特色が見られるばかりでなく、各種の食物文化やその他、いろいろの面にわたって共通の文化的特色を有していることが注目される。それではこの照葉樹林焼畑農耕文化の我が国への伝来時期は何時ごろと考えられるのだろうか。文化人類学者の岡正雄氏はイモ栽培文化の伝来を縄文中期、雑穀栽培文化を縄文後期に当てている。

中尾氏の場合には、「この文化複合は石器時代の採集経済の段階から栽培農業からたぶん青銅器使用の段階まで連続してきたが、鉄器時代に入る頃には照葉樹林文化の独立性は死滅してしまったと考えている。とその下限を示している。

以上「稲作以前」よりポイントを解説

P5241411「稲作以前」佐々木高明著

P5241412雲南から西日本の照葉樹林帯

画像照葉樹林文化の農耕の発展中尾佐助氏によるなお文化複合はⅰとIIあるいはⅡとⅢのように複合した概念を捉えている



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