松浦武四郎は1818年に生まれました。武四郎が13才の1830年(文政 13)にお蔭参りと言って伊勢神宮をお詣りに来たひとが1年間に500万人を超えました。日本の人口が3000万人の時で伊勢街道は人で溢れかえっていました。そして武四郎が16才の時こっそり家を出て江戸に向かいました。しかし一ヶ月後に連れ戻されました。しかし旅の楽しさや旅先の風景を思い出して旅への思いはますます強くなっていきました。とうとう17才の時に両親に許しを得て全国を回る旅に出ます。旅費は東京で覚えたハンコ作り(篆刻)でお金を稼ぎながらの旅でした。この度は長崎でひとまず終えることになります。武四郎は石を彷徨う大病に罹ったからです。長崎で世界の情勢を知りました。そこでロシアが蝦夷地を狙っているらしいということをしりました。28才で蝦夷地に渡るまで琉球と蝦夷地を除いて日本各地を廻りました。そして28才の時の最初の蝦夷地探検をし、その後合計6回の探検をしました。アイヌの人たちの暮らしぶりが生き生きと書かれています。時は明治になり政府は蝦夷地の開拓に乗り出しました。武四郎も役人に任命され蝦夷地の新しい呼び方を考えることになりました。7つ候補が上がりそのなかで「北加伊道」という名前が選ばれました。カイはアイヌの言葉でこの国に生まれたものという意味です。武四郎の思いがこめられています。
武四郎以前に蝦夷地を調査した人がいることも忘れてはならない。1792(寛政4年)ロシア使節ラクスマン来訪以降江戸幕府はロシア対策に力を入れ、蝦夷地踏査を実施していた。そのメンバーの中に、宇治山田出身の村上島之允(むらかみしまのじょう)がいた。健脚と地図作成能力が評価され、松平定信に抜擢された人物である。村上は寛政10年(1798)12年と蝦夷地に渡り、文化4年(1807)まで同地で生活を続けた。殖産興業の傍ら、蝦夷地の様子を記録し、当時のアイヌ民族の様子を描いた比類なき画集「蝦夷島奇観」がまとめられた。これらの絵画は武四郎の「蝦夷漫画」にも引用されている。武四郎は村上の著作をよく勉強していたことがわかる。