盛岡歴史文化館を後にして城内のお堀に出ると「ホタルの里」という看板が出ていて毎年6月下旬頃から約一ヶ月ホタルが鑑賞できますと書かれていた。堺より約一ヶ月遅い。毘沙門橋を渡ろうとすると川の両側に明日のチャグチャグうまっこの幟が数十本建てられていた。もりおか啄木・賢治青春館はすぐにあった。二人とも明治時代に生まれ、盛岡中学校に学んだ。16歳の時に文学で身を立てることを決意、中学校時代に好きになった女性と19歳で結婚している。20歳の時に代用教員となる。代用教員や地方新聞記者として働き、23歳の時の東京朝日新聞に更生係として採用され働く。この間創作活動に励み23歳の時に処女歌集「一握の砂」を刊行、明治45年肺結核にて死亡。享年27歳。賢治は明治29年に生まれる。大正2年舎館排斥運動で寮を追われる。大正9年盛岡高等農林卒業・研究生となる。大正10年花巻に戻り、稗貫農学校の教師となる。大正13年「注文の多い料理店」出版。大正15年花巻農学校を退職し、濃厚自炊の生活を始める。昭和3年急性肺炎のため自宅療養。昭和6年「雨ニモマケズ」発表。昭和7年「グスコーブドリの伝記」発表 昭和8年37歳で逝去。私にとって石川啄木は中学校の時にはじめて国語の教科書に出てきた。「東海の小島の磯しらすなに我泣き濡れてカニとたわむる」や「戯れに母を背負いてその余り軽きに泣きて三歩歩まず」「故郷の山に向いてゆうことなし故郷の山はありがたきかな」など今でも覚えている。宮澤賢治で面白かったのは銀河鉄道の夜」だ。ジョバンニやカンパネルラと一緒に旅をしている感じだ。最後は現実に引き戻される。ここを出てすぐの岩手銀行赤煉瓦館に行く。2階部分に銀行の一階を見渡せるテラスがぐるっと
回され、銀行員の仕事が全て見渡せる。何か映画のシーンにいる雰囲気だ。一階でバザーを明日から行うのでそれぞれ手作りの作品を並べていた。私はその中でちょっと変わったネクタイピンを見つけたのでそれを買った。新渡戸稲造が岩手県出身というのも像を見て初めて知った。ここからホテルに帰ろうと思ったのが与の字橋を渡って紺屋町番屋の方へ行ってしまった。さらに上の橋まで行って間違いに気づき、再び新渡戸稲造のところまで引き返し、道を高校生ぐらいの男の子に聞くと、なんとホテルニューカリーナまで案内してくれるという。高校生は大谷翔平の花巻東高校の生徒だった。