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高見山・松坂観光と松浦武四郎記念館4

歴史民俗資料館の一階は三井高利の果たした役割を彼の年齢順に解説していましたが、やはり若くしてその才が発揮され、わずか18歳で江戸の店の支配人になっています。「大日本持◯長者鑑」お金持ちの番付表には松坂の商人が多く入っています。番付表は今から200年前に作られたもので小津家、長谷川家、長井家が入っています。勧進元には三ツ井八郎右衛門となっています。それからお伊勢参りで活躍した御師のこともビデオで紹介されていました。2階は小津安二郎松坂記念館になっていました。2階へ上がる階段の壁に映画の大きなポスターが描かれている。「父ありき」「東京物語」「秋刀魚の味」などあったが私は見ていない、「浮草」を知っている程度か、京マチコというきれいな女優さんがいたのが記憶にあるが筋は忘れてしまった。それと若尾文子さんもきれいだった。小津安二郎は東京生まれであったが父の教育方針から9歳から19歳まで松坂で過ごしました。その後現神戸大学・名古屋大学を受験するも不合格、中学時代から映画にはまり、時には名古屋まで出かけるほど映画少年だった。一浪するも映画に夢中で再び不合格、仕方なく代用教員として松坂から少し離れた飯高町で1年間過ごした後東京へ戻り、松竹キネマ蒲田撮影所に撮影部助手として採用され、4年後には監督に昇進、30歳で雑誌「キネマ旬報」でベストワン監督に選ばれました。60歳で亡くなるまでに54本の名作を残しています。

11時を回ったので急いで退館し、松坂城址内にある本居宣長記念館に行く。本居宣長の屋敷は別の場所にあったのが、ここに移されて観光客が訪れやすいように配慮されている。本居宣長の業績はなんといっても古事記を誰にもわかりやすく解明したことではないだろうか、それまで古事記を解明した人物はなかったのでは、元々宣長は日本いわゆる大和は何かということに興味があり、その追求する手段として古事記に何が書いてあるかを研究した。京都で医者の修行を5年半した後、松坂で医者として独立その傍に古事記の研究や色々な書物を読破している。それと彼は地図を書くのを得意とし、この時期に自分の理想郷とする地図も書き上げている。

IMG_0919松坂木綿

IMG_0921縞帳 客に柄を選ばせた

IMG_0916長者番付 大日本持◯長者鑑

IMG_0914ビデオによる御師の紹介 本居宣長もここで働いたことがある

IMG_0927小津安二郎の画才

IMG_0928小津安二郎の作品紹介

IMG_0930小津安二郎の名画の看板


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