本居宣長で思い出すのは中学の時か、高校の時に習った「松坂の一夜」お伊勢参りにきた賀茂真淵に宣長が会う場面である。たった一回の出会いでその後6年間真淵が死ぬまで二人の師弟関係は続いた。真淵が67歳、宣長が34歳の時である。真淵は学問は基礎が大事と言い、まずは古代に言葉である万葉集を勉強させた。そしてわからないことがあれば手紙で質問すれば答えてあげようとまでおっしゃった。中学か高校の時の先生は一期一会がいかに大切か教えたかったのであろう。私は大した意味も覚えず通り過ごしてしまった。宣長の古事記研究には地の利というものがあったのかもしれない。伊勢神宮に祀られている天照大神がどんな存在かを知るため、日本書紀を理解した。宣長は伊勢国の冒頭で引用する「かた國のうまし国」と言う言葉は日本書紀にある。垂仁紀に伊勢神宮の成り立ちに関わる記事があり、そこで伊勢國についての描写が出てくる。天照大神を祀る地を探して菟田篠幡(うたのさきはた)に降り立った倭姫命は大和、近江、美濃を経て伊勢國にたどり着く。この時天照大神が「この神風の伊勢国は、常夜の浪の重浪帰する国なり。傍国のうまし国なり、この国に居らんと欲ふ」とおっしゃった。こうして天照大神は伊勢に祀られることになった。
賀茂真淵の指導を受けた本居宣長はわからないことがあれば真淵にいつでも質問できた。真淵は駿河にいたが当時江戸ー京都ー大坂を走る町飛脚は料金を払えばいつでも利用できたのである。しかし伊勢参りの盛んな時であったのでこれらの旅人に託して手紙をやり取りした、これがかなり無事に届けられたと言うのは驚きだ。「参宮便」などと呼ばれた。宣長はもともと学者などの系統の家に生まれた人でなかった。16才の時に江戸の叔父の店に商人として見習を始めたが一年で松坂へ返されてしまう。19才から23才まで今井田家に養子に入るも離縁され、母は宣長が生きていける道を探った結果、医者にすることを決意、宣長は23才から5年半京都で医学を学び28才で医者となった。松坂に戻った宣長は昼は医者として夜は古典研究を行ったのである。宣長が古事記伝の44冊目を書き上げたのは寛政十年(1798)で宣長69才の時であった。
宣長の言葉「詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、まなびやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかかはるまじきこと也」