長浜城を後にして長浜鉄道スクウェアに向かう。今の駅舎の上に2本の煙突があるが、これは昔の長浜駅舎を真似たものだ。煙突の形をした建築物で暖炉の煙突ではない。スクウェアの入り口は3等乗客の待合室になっており、火鉢が置かれていた。1・2等乗客の待合室は別にあり、暖炉が置かれていた。そこにはマネキンがあり、男性は背広にマント、山高帽を被り、女性は日本髪を結い、着物姿であった。部屋の隅には太くて長い竿ばかりが置かれてあった。私はこの原理を知っている。いわゆるテコの原理で吊るすものの重さは竿ばかりを吊るす紐のところが支点となって分銅を右にずらしていって均衡を測る。これの使い方を知っている若い世代はいるのだろうか。続いて北陸線電化記念館に入る。まだ東海道線が開通する前に敦賀〜長浜間に鉄道が開通していた。これは明治17年(1884)のことだ。明治35年にシベリア鉄道が開通、明治45年にウラジオストック〜敦賀間の航路が開通、船と鉄道(欧亞国際列車)で東京〜パリ間が17日で行けたという。敦賀がヨーロッパに向けて開かれた窓のようなもので敦賀港が江戸時代北前船で栄えた後は国際港となって発展していったのである。少し話は飛ぶが「杉原千畝」という人を知っているだろうかナチスによって迫害されたユダヤ人を助けた外交官である。日本政府がビザを発給を許可しなかったにもかかわらず人道的立場から昭和15年ユダヤ難民2139人に日本通過ビザを発給した外交官である。これらの難民は主にシベリア鉄道を通って敦賀に来たそしてそこからインドネシア、オーストラリア、アメリカにわたっていった。イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」賞を昭和60年(1985)いただいている。1991年鈴木宗男外務政務次官が杉原千畝を高く評価し、名誉回復に努め、2000年に河野洋平外相が外務省の非礼を正式に認め、遺族に謝罪した。